渡辺保*1「種本と2種の版本が示す時代や才能」『毎日新聞』2020年11月28日
『新訳 リア王の悲劇』(河合祥一郎訳、角川文庫)の書評。しかし、この書評のユニークさは、書評の対象となっているのが訳文というよりは、「巻末に付けられたシェイクスピアの種本「レア王年代記」とシェイクスピアの二種類の版本の比較研究」であるということだろう。河合氏による『レア王年代記』と「クォート版」と「フォーリオ版」(「全集版」)の比較は、シェイクスピアの同時代を超えて、トルストイによる批判とジョージ・オーウェルによる反批判、ヤン・コットによるベケットの『エンドゲーム』との対比を踏まえたピーター・ブルックの演出といった、近現代の演劇史を喚起するものである(「ルネッサンスから近代、そして現代への演劇の大きな流れ」)。
なお、「クォート版」と「フォーリオ版」の差異は、
ということだという。
(前略)クォート版では古い封建体制が生きていた。しかしフォーリオ版ではそういう体制そのものが崩壊して、その廃墟の荒野を彷徨するのが、リア王であり、道化であった(後略)
ところで、初めて『リア王』*2を読んだのは福田恆存訳だったと思う。その後、小田島雄志訳も読んだ。『リア王』に限らず、シェイクスピアの翻訳はまた新たな世代交代の時期を迎えているということなのだろうか。