廣松渉を思い出して


よく文法的にいい加減でも通じればいいじゃんという人がいる。それは或る意味で正しいといえる。でも、どうしてそれが可能になるのか。ひとつの可能性としては、聞き手若しくは読み手のメタ言語機能のおかげだということが考えられる。〈誤った〉表現に出食わしても、それを補正してしまう。〈誤り〉が摘発されることと見逃されること(通じてしまうこと)は同じ能力に依拠していることになる。
と書いてから*1廣松渉『世界の共同主観的存在構造』で、

例えば、牛が或る子供にとって「ワンワン」としてあるという場合、牛がワンワンとしてあるのはその子供に対してであって、私にとってではない。とはいえ、もし私自身も何らかの意味での牛をワンワンとして把えるのでなければ、私は子供が牛を“誤って”犬だと把えているということを知ることすら出来ないであろう。子供の“誤り”を私が理解できるのは、私自身も或る意味では牛をワンワンとして把えることによってである。この限りでは、“ワンワンとしての牛”が、たしかに二重に帰属する。しかし、この際、“私”と“子供”とは、ボールを追っている子供たちのように単に並列的なのではない。
ここには自己分裂的自己統一とでもいうべき二重化が見出される。私本人にとっては、牛はあくまでも牛であってワンワンではない。しかし、子供の発言を理解できる限りでの私、いうなれば子供になり代っている限りでの私にとっては、やはり、牛がワンワンとして現前している。簡略を期すため、ここで、私としての私、子供としての私、という表現を用いることにすれば、謂うところの二つの私は、或る意味では別々の私でありながら、しかも同時に、同じ私である。
このような自己分裂的自己統一とでも呼ぶべき事態が最も顕著にあらわれるのは言語的交通の場面においてであるが、これは決して例外的な特殊ケースではなく、――“他人”の喜びや悲しみが以心伝心“感情移入的”にわかるといった基底的な場面においても認められるものであり――、フェノメナルな意識が一般的にもっている可能的構造である、と云うことができよう。(p.30)
と書かれていたことを思い出した。
世界の共同主観的存在構造

世界の共同主観的存在構造

ところで、先週林巧『マカオ発楽園行き』と亀喜信『ハンナ・アレント 伝えることの人間学*2を読了。
マカオ発楽園行き―香港・マカオ・台北物語 (講談社文庫)

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ハンナ・アレント―伝えることの人間学―

ハンナ・アレント―伝えることの人間学―