「コロナ・ピューリタニズム」を超えて(斎藤環)

承前*1

塩田彩「シリーズ疫病と人間 精神科医 斎藤環・筑波大教授」『毎日新聞』2020年8月1日


斎藤氏は春の緊急事態宣言下で見られた「自粛ブーム」を「コロナ・ピューリタニズム」と呼ぶ。


「ソーシャル・ディスタンス」や「3密回避」などは、もともと医学的な要請だったが、多くの人があくまでも医学的に適切な行動変容の原則であるということを忘れ、いつの間にか「お上のお達しだから守らなければいけない」というような、道徳的規範にすり替わったように見える。
道徳的規範になると、正義が暴走する。「自粛警察」が登場し、感染リスク回避を守らないやつは社会の敵であり、バッシングされても仕方ないという風潮になる。感染者が謝罪させられるというのは日本だけにある奇妙な風習だ。メディアが感染したスポーツ選手やタレントの謝罪場面を肯定的に報道することをやめていかなければ、感染は悪いことだという意識がますます広がり、感染した事実を隠蔽する動きにもつながる*2。それは市中感染のリスクを高め、社会にとっても不利益だ。

人びとがいったん「正義」を誤解してしまえば、規範に沿わない一人を排斥しようという運動は必ず起こる。優生思想にしても、廃仏毀釈にしても、戦時下の敵性語の禁止や憲兵の取り締まりにしても、排斥運動は民間で増幅してきたのだ。
「ゼロリスク」幻想について;

私は医者だから、基本的には感染リスクを下げましょう、命を守りましょうと言わざるを得ない立場だ。しかし、なぜコロナに関してだけそう言われるのかは疑問に思っている。「これをすれば巡り巡って人が死ぬかもしれない」「人を傷つけるかもしれない」という行動を、私たちは日常的にとっている。例えば車の運転一つとっても、誰でも人身事故のリスクを完全にゼロにはできないことを分かっていながら、日常生活を送る上で必要だからとあえてリスクを冒している。われわれの日常というのは、そうした行動の集積だ。そう考えると、コロナに関してだけゼロリスクを求めるというのは、明らかにおかしい。
福祉の考え方の中に「Dignity of risk(リスクを負う尊厳)」という発想がある。あるいは「Right to fall(失敗する権利)」とも言われる。障害のある人に対して周りは保護的に接しようとする。当事者が何かしたいと思っても「それは危ないからやめましょう」「それをやってしまうとあなたたちが死ぬかもしれないからやめなさい」と止める。その行動が実は、障害者の権利を損なっているという考え方だ。障害があっても、リスクを負い主体的に生きる権利は、健常者と同等に持っている。この発想を普遍化すれば、我々は誰しもがリスクを負う尊厳を持っていると言えるだろう。

行き過ぎたコロナ・ピューリタニズムは、社会の有り様を貧しくする。不潔の回避や健康重視という発想が行き過ぎ、健康イコール正義であり、不健康はことごとく悪だというような貧しい規範が生まれてきつつあるように思う。そうならないためには、ゼロリスク社会ではなく、むしろ、リスクを負う尊厳を大切にする社会の有り様を、感染防止対策と並行して考えていく必要がある。声高には主張しにくいが、それがないと痩せた文化、痩せた社会になってしまうそうな懸念が大いにある。

コロナがこの社会の有り様やインフラをすべて変えてしまうとは思えない。元の日常に戻ろうとする動きは今後もあるだろうし、それが自然だ。「臨場性の暴力」や「リスクを負う尊厳」という考え方は、日常を回復する際に、どのようにどこまで戻るべきかを考えるきっかけになる。思考停止してただ原状復帰を目指すのではなく、メリットとデメリットを踏まえ、以前よりもっと繊細な配慮ができる社会に向けて回復していく手順や落としどころを探っていくことが大切だ。
思うに、「コロナ・ピューリタニズム」や「ゼロリスク」幻想の悪しき帰結は、〈コロナは風邪だ〉というトンデモな反動*3を生み出したことだろう。ワクチン開発が新型コロナウィルス抑制の切り札の1つであるわけだけど、(コロナに限ったわけではないけど)ワクチンを巡っては、一方における、ワクチンのリスクに対する懸念を表明しただけで反科学扱いしかねないワクチン主義者がいて、他方における、(例えば)想定内の副反応が出現しただけなのに、ワクチン有害を喚き出す反ワクチン主義者*4に二極分解していないか? どちらも、リスク論的な思考の欠如ということでは共通しているのだけど。