森岡正博、「反出生主義」を語る

上東麻子*1「コロナ禍に広がる反出生主義」『毎日新聞』2021年1月16日


森岡正博*2が「反出生主義」について語っている。
「反出生主義」って何?


簡単にいうと、人間が生まれてきたことを否定し、新たに子どもを産み出すことも否定する考え方です。実は古代からさまざまな文献に顔を出していました。(略)南アフリカの哲学者、デイビッド・ベネター*3が有名ですが、地球環境問題の悪化を深刻に受け止め、子どもを作らないことを推奨したり、人類絶滅を目指したりする運動もあります。

「生まれてこないほうがよい」という考え方が古くから脈々と受け継がれているのは、それが理性で生死を考えようとする人間の本質にかかわるからだと言えます。生まれなければ苦しみは一切ないから、すべての人間は子どもを産むべきではないとする思想に「反出生主義」という名が付けられ、共感が広がってきたのは最近のことです。
(略)日本では今、多くの人が「生まれるは無だった」と考えているように思います*4。しかし、その考え方が多数派になったのは最近のことです。アジアでは輪廻の考え方があり、生まれる前は別の人間や生き物だったと考えられてきました。そういう宗教的な生命観が弱まってきたことが影響しているように感じます。

一つはこの200年ほどの間に、科学が宗教より強くなってきたことです。生まれる前も死んだ後のことも証拠(エビデンス)がない。現代の反出生主義はそうした考えにフィットしたと言えます。
もう一つは、痛みに対する感受性が高まっている可能性です。私は「無痛文明論」という著書で、痛みから逃れる仕組みが社会に張り巡らされてて来ていると論じました。例えば、手術の時は麻酔で痛みを感じなくなりました。エアコンによって暑さ寒さを感じなくなりました。痛みを制御できるようになったおかげで、人々痛みの存在に敏感になった。出生後の苦しみに過剰に反応するようになった背景として、社会の無痛化があるかもしれません。

(前略)本来、反出生主義は自殺とは関係ありません。しかし、反出生主義に共感する人が希死念慮(死にたいという願望)を持つことは大いにありえます。反出生主義への共感は、社会の息苦しさのバロメーターかもしれません。生きやすい社会なら、反出生主義に共感する人は減るでしょう。
斎藤環氏の言葉を使うなら、「臨場性の暴力」を回避するために「リスクを負う尊厳」を断念するという感じなのだろうか*5