柴錬on 重量挙げ

柴田錬三郎*1「天にらむ一瞬」(in 山口文憲編『やってよかった東京五輪*2、pp.142-144)*3


曰く、


重量あげは、いわば、孤高のたたかいである。スポーツには、拳闘のごとく、敵とわたりあうのと、自分自身の力の限界を孤独で試みるのと、ふた通りある。前者は、反射神経がすぐれていなければならず、後者は、無我無想の境地にいたることを必要とする。
敵がある場合は、とにもかくにも、めざましく向っていけばいいわけだが、孤独のたたかいの場合は、自分自身と対決しなければならない。これは、大変である。
私は、各選手が、バーベルを前にして、いかにして、無我の状態に自分を置こうか、必死になっているのを眺めながら、そのむかしの剣客たちの修業を想った。
宮本武蔵とか柳生但馬守などの修業は、すべて、対手は、木や石や、闇や光であった。試合の場合は、真剣を用いたので、修業は、孤独ならざるを得なかった。
私は、各選手の表情を眺めながら、木や石にむかって太刀を構えた兵法者に似ていると思った。
百二十キロといえば、三十二貫である。それを、一瞬で、持ち上げるのである。体力だけでは不可能である。凄まじい気合を発しなければできるものではない。(pp.142-143)