「自分」を巡って(最果タヒ)

最果タヒ*1「希望的観測2・0」『ちくま』585、pp.62-63、2019


少し抜書きする。


体の細胞は数年ですべて入れ替わるという「よく聞く話」は、誇張しすぎであるらしく、生まれてからおんなじ細胞がずっと残っている部分も体にはちゃんとあるんだそうです。爪が伸びて、それを切って、と繰り返す人生だし、忘れてしまうことは多いし、「ずっと同じ細胞がある」より、「みんな入れ替わってしまう」という言い草のほうが、びっくりしつつもしっくりするのはなんでだろうね。わかりっこない部分が多過ぎる肉体には、「裏切ってほしい」という期待もあって、信じられないことが真実である方が、「信じられる」のかもしれない。「そりゃ理屈はそうだろうけど」みたいなことは、ぶっちゃけ信じたくない。みたいな(これはたぶん、死を恐れるところにも直結していると思います。人は簡単に死んでしまうが、理屈はそうでもそこを受け入れたくない部分があって、神秘的な事実があればと願っている。そして時に科学は、想像を超えた、理屈を二段跳びしたみたいな事実を見つけてしまうので、人はどこまでも諦めきれないんじゃないかなあ、でもそれは、人を合理的だけの生物にしない理由でもあり、多分私が詩を書く理由とも地続きではあるのだ。(p.62)

「自分」という存在が、確固たるもの、世界や他の人とは繋がっておらず、溶け合っておらず、絶対的な境界線で区切られた、独立した存在だと思っているのは、「社会」といった人間のシステムだけであって、実際のところ私は、「私」が独立してなどいないだろうと思う。細胞が入れ替わっていく、捨て去られた細胞は川にながれて、海へ行き着き、誰かの餌になるのかも。そういう繰り返しのなかで、どうやって個人を個人とみなすの。私たちは繋がっていて、(もちろんそれはSNSとかの話ではないです)、だから、他人に対して冷たくできたりするんではないか。優しくできたりもするんではないか。独立し切っているなら、たぶん「人を殺してはいけない」という倫理が他者と共有されることはなくなります。エゴによっての判断だけが全てとなり、暴力が貫く世界となるでしょう。って、なにを私は書いてるんだろなあ。胃カメラをして機械が悪いのかもしれない。とにかく、私は「私」ではあるが、ほんとはそこからはみ出し続けているのだということ、個人が個人であることを証明するはずの肉体は、実はずっと固定された「1」ではなく、減っては増えて、減っては増えて、そしてその減ったものはどこにいったのか、増えたものはどこからきたのか、わからないということ。その曖昧さに、「私」を証明させることなどできるわけがない。記憶の話でした、そう、記憶の話。私は、何かを急に思い出す時、もしかして私ではなく、世界の方が、思い出しているのでは? と思うのです。(pp.62-63)
次のパラグラフも写してしまえ;

忘れてしまっていることはいくつもあり、しかし忘れたことは消えるのではなく、どこかに蓄えられている。それが私の中にあるのではなく、世界の中にあるとしてもおかしなことではなくて、だって、私はいつも世界と繋がっているから。というか、世界の一部として生きていて、なんとなく、利便性を重視して、「1」っぽくしているだけだから。だから私が何かを思い出す時、ハッとしているのは、私ではなく世界であるのかもしれない。毎年同じ時期に空気が冷たくなり、同じ時期に花が咲く。桜に飽きているのは私より世界のほうであり、その美しさに気づく時、世界は、自分が美しかったことを思い出すのかもしれない。気づく、思い出す、という行為は、見えるもの聞こえるものをより鮮やかにするが、それは幻なんかではなく、本当に世界が目覚めた瞬間かもしれないね。私は私の境界が曖昧であると思いながら、そう、だから世界だって私の手の中にあるの、と思います。(p.63)