機能的であること、から

しんざき*1「教師がクラスの「いじめ」への対処を誤ってしまう理由。」https://blog.tinect.jp/?p=37119


小学校教師、「いじめ」を語る。なかなか興味深い。


あとね、と彼は言いました。

「いじめってクラスの雰囲気が悪くなる、みたいに思ってる人多いでしょ」

「うん」

「あれウソ。少なくとも教師の側から見ると、むしろいじめがあった方がクラスの雰囲気がよく見えたりする」

「え」

「いじめてる側、あるいはいじめを黙認してる側からすると、少なくとも主観的には「共通の敵」に対して結束してるわけでしょ。いじめの声だって、表面的には「笑いが絶えない明るいクラス」に見えたりするんだよ。

だから、教師がちゃんと見てないと、「いじめが発生してるクラス」を「仲良く協調出来ているクラス」に誤認したりする。ヘタをすると、いじめられてる子を先生まで異分子扱いしたりする。それでいじめられてる子はますます絶望する」

驚くことはない。スケープ・ゴートというのはそういうものだろう。
「いじめ」というのは「クラス」の社会秩序維持にとって機能的であるわけだ。そのように言った途端、私たちは別種の問題に巻き込まれることになる。倫理的な問題、或いは政治的な問題。じゃあ「いじめ」の存在を肯定するの? と突っ込まれることは必定だろう。「いじめられてる子」の「絶望」を突きつけて、そう詰問されたら、どうするのか。どうするのかについてはここでは議論しない。ただ、付け加えておけば、(良心というものがある限り)スケープ・ゴートは殺した側を永遠に束縛し続ける*2
「いじめ」に話を戻す。

けど、じゃあ実際にいじめが起きた時、学校側はどうすればいいのか、という話では、彼が言っていたことをまとめるとこんな感じになります。

・一にも二にも、とにかく可能な限り早く共有。教師側にも、当然親にも。共有を先延ばしにすれば先延ばしにする程状況は悪くなる

・最優先課題は、いじめられてる子の自己肯定感の回復。学校に逃げ場を作ってあげないといけないし、可能な限りいじめている側と接触しないで済むようにしてあげないといけない

・いじめている側の安易な「反省」を認めてはいけない。簡単に「許される」雰囲気を作ってはいけない。自分たちがしていたことの責任については淡々と指摘して追及する

・教師はいじめられている側の味方であること、いじめを一切許容しないことを、いじめていた側にも、いじめられていた側にも、その周囲にも明示すること。曖昧にしてはいけない

こうしたことどもは、差別やハラスメント問題での妥当性を有しているようだ。一部書き換えてみると、

・最優先課題は、差別されている者の自己肯定感の回復。社会に逃げ場を作ってあげないといけないし、可能な限り差別している者と接触しないで済むようにしてあげないといけない

・差別している者のの安易な「反省」を認めてはいけない。簡単に「許される」雰囲気を作ってはいけない。自分たちがしていたことの責任については淡々と指摘して追及する

・公的機関や公職者は差別されている者の味方であること、差別を一切許容しないことを、差別している者にも、差別されている者にも、その周囲にも明示すること。曖昧にしてはいけない