http://d.hatena.ne.jp/noharra/20080911#p1
やっぱり、ルソー(というかルソー主義者)は怖いよね、と思う。
それはともかく、社会は「お前の死が全体の役に立つ」と言うために必要な発声器官、或いはそうした文言を書きつけるための手を持っていない*1。そのように意志するための脳も持っていない。所謂法人というものがある。これは脳を含む身体を有していないのに、社会的には〈人(person)〉として扱われ、〈人(person)〉として振る舞っている。しかし、社会はいくら概念的な操作を弄しても、法人ではない。だから、社会の名を騙っての「お前の死が全体の役に立つ」という言説は実のところ、単数若しくは複数の人*2の言葉だということになる。或いは、これから死ぬことになる当の人の自らを納得させるための言だということも考えられる。また、或る特定の死が「全体の役に立つ」と想像すること*3、そうした想像が間主観的に共有されることは可能であろう。
「お前の死が全体の役に立つ」と言い放つ人(たち)はその〈死〉の後のことをどう考えるのか。祟りは怖くないのか。その祟りを引き受ける覚悟はあるのか。祟りを恐れるという一見迷信的な振る舞いが私たちを野蛮から文明へと引き留めているということはあるのだ*4。世俗的な言葉で言い直せば、その「全体の役に立つ」ための死者が自らの意識にまとわりつくことについてどう考えるのか。さらにいえば、そこで護持される「全体」なるものが〈死〉によって基礎づけられるということを受け入れるのか*5。
なお、「法人」についての議論は、岩井克人『会社はこれからどうなるのか』も参照されたい。
- 作者: 岩井克人
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2003/02/01
- メディア: 単行本
- 購入: 7人 クリック: 52回
- この商品を含むブログ (99件) を見る
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070304/1173023189
*2:法人も含むかも知れない。
*3:全体の内に在する私にとって、〈全体〉とは想像的なものとしてしか語ることはできない。もし私によって客観的に認識可能な〈全体〉なるものがあったとしても、そんなものは全体と呼ぶに値しないだろう。
*4:たしか、大村英昭先生によれば、殺人犯が警察に自首する動機として、自らが殺した奴の祟りが怖い、化けて出てくるのが怖いというのはけっして少なくないという。
*5:本来スケープゴートは殺されることによって、冥界から現世を逆に緊縛し、支配するということになる筈なのだが、コスモロジーが衰退してサイコロジーが隆盛する現代のスケープゴートは結局殺されても、直ぐに忘却の中に埋められてしまい、殺され損だと言えるかも知れない。See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060122/1137952844