亀井南冥(メモ)

chutetsu*1「地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・上」https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2019/08/20/120000
chutetsu「地元の儒者を尋ねて―「亀井南冥」篇・下」https://chutetsu.hateblo.jp/entry/2019/08/27/120000


福岡藩儒者、亀井南冥*2を巡って。墓所(「上」)と南冥が館長を務めた「甘棠館」(「下」)。「上」に曰く、


「亀井南冥」というと聞き慣れないかもしれませんが、志賀島から「漢委奴国王」の印が発見された際、すぐに『金印辨』を著し、その重要性を説いた人物、と紹介すれば通じるかもしれません。ちなみに、最近の「亀井南冥」研究を調べてみると、この『金印辨』に関わる論文のほか、儒学関係はもちろんのこと、南冥の漢方医学についての論文も多いようです。南冥は、山脇東洋の弟子筋に当たるため、医学者としては古方派、儒学者としては徂徠学(古文辞学)の系統であり、著作も幾つか残しています。
See also


木村専太郎「黒田藩儒医(儒学者兼医師) ~郷土のほこり … 福岡の先賢医師~」http://www.kimurasentaro.com/note/no012_1.html
東亜医学協会「亀井南冥」http://aeam.umin.ac.jp/siryouko/ikadata/kamei.html


何故か、本居宣長記念館のサイトに南冥の略伝がある;


亀井南冥(カメイ・ナンメイ)


 寛保3年(1743)8月25日~文化11年(1814)3月3日(一説2日)。享年72歳。筑前(福岡県)の町医者の家に生まれる。名は魯、通称主水、字は道載。大坂で永富独嘯庵に徂徠学を学ぶ。安永7年福岡藩主・黒田治之により抜擢され士籍に列し、累進して侍講となる。天明4年、東西の藩学が出来た時に西学・甘棠館(カントウカン)総裁となる。著書に『論語語由』など。門人細井金吾は宣長に入門する。
http://www.norinagakinenkan.com/norinaga/kaisetsu/kamei.html

ところで、トランジェンダー儒者、高場乱*3も南冥の息子、亀井昭陽*4の弟子*5