今どき稀有な

洞村の強制移転―天皇制と部落差別

洞村の強制移転―天皇制と部落差別

角南圭祐「天皇陵見下ろす地から移転した被差別部落https://this.kiji.is/520866286343881825


天皇制と部落差別との関係を問う、今どき稀有な記事。『洞村の強制移転』の著者、辻本正教氏*1の話を中心に。「神武天皇陵」を見下ろす位置に被差別部落(「洞村」)があるのは「不敬」であるというローカルな世論を背景に聚落の「強制移転」が行われた。
さて、その「神武天皇陵」は、幕末における「天皇」のプレゼンスの競り上がりの中で〈発明〉されたというのが実情に近い;


 「天皇陵古墳を歩く」の著書があり、奈良県橿原考古学研究所の調査課長を務めた今尾文昭さん(63)が解説する。「神武から8代は神と人とをつなぐ存在で、戦前も含めて、歴史学者の間では実在は疑われている。7世紀末、橿原に藤原京が造られた頃、初代とした神武天皇の陵墓が必要になった。『古事記』『日本書紀』に記された天皇の系譜との整合性を図るために、畝傍山に近い誰かの古墳を充てた」

 当時定められた神武陵の場所は、長い歴史の中でどこか分からなくなった。その後、幕末の1863年、日本書紀の記述などを手掛かりに、畝傍山近くの三つの候補地から改めて決められた。最後は当時の孝明天皇による決裁だった。

 「幕末から明治にかけ、古墳が次々と天皇陵に定められた。西洋列強に並ぶため、日本は非常に古い歴史を持ち、神の子孫が治める国だと示すためだった。天皇の権威を高めようとした訳だ」と今尾さん。「7世紀の律令(りつりょう)時代から今も、古墳はそれぞれの時代で政治利用されてきた」と強調する。

「神武陵の場所は、長い歴史の中でどこか分からなくなった」。これは、平安時代から中世にかけての〈穢れ意識〉の膨張が関係しているのでは? 幕末以降、「古墳が次々と天皇陵に定められた」のは近世以降に〈穢れ意識〉が薄まったことを前提としているだろう。そうした中で、被差別部落の〈穢れ〉が強調され・排除されたというのは皮肉である。