「片目」から雨へ?

承前*1

平景清と雨乞い」http://d.hatena.ne.jp/tonmanaangler/20130924


秋芳洞の「寿円禅師伝説」というのを教えていただく。


秋芳洞の入口から2km位下流に自住寺というお寺があります。このお寺は平城天皇の大同2年(807)にひらかれたお寺であったと伝えられていますが、延元元年(1336)から57年も続いた南北朝の動乱のため、霊場は全く廃墟となり草露に埋もれていました。延元2年この地を訪れた寿円禅師はその由緒を惜しみ再興開山されました。

後村上天皇の正平9年(1354)の初夏、この地方一帯を大干魃が襲いました。作物は枯死寸前で、人々は飲み水にも困る毎日でした。この姿を見て禅師は心を深く痛め、何としても水を村人に与えたいと21日間の雨乞祈願を発願され、旧暦4月1日入洞し祈りを始められたのであります。この頃の風潮として、洞窟は神秘な場として入ればたたりがあると信じられ、誰一人入ったことのないこの巨洞に死を決して入洞されました。
 満願の21日目、まだ明けやらぬ暗闇の中に大粒の雨が降り始め、やがて雷鳴と共に豪雨が襲来しました。村人は外に飛び出しこの慈雨に歓喜しました。禅師は水音に大願成就したことを知り、仏天の加護を感謝しながら合掌して豪雨渦巻く竜ヶ淵に身を投じられました。

後日水が引き、変わり果てた禅師の姿が下流から発見されました。そこは自住寺の門前に近い田の中でした。住民は涙のうちにその御遺体を荼毘にふし、その骨と灰を土に練り込み、禅師の骨灰像を作って自住寺にまつりました。これを遺灰像と呼んでいます。

山口県指定文化財寿円禅師遺灰像*2は、現在秋芳洞入口川向こうに御堂を建て、そこに安置し一般の方もお参りが出来るようになっています。
http://www.karusuto.com/html/02-learn/13-juenzenji.html

やはり龍王龍神)と関係があるようだ。「竜ヶ淵」という呼称。寿円以前、「洞窟は神秘な場として入ればたたりがあると信じられ、誰一人入ったこと」がなかった。龍王の領域として? 「延元2年この地を訪れた寿円禅師」という記述からすると、寿円は外来者(マレビト)だったようだ。2009年に25年ぶりに「寿円禅師顕彰祭」が行われたという記事がある;

秋芳開洞100年 25年ぶり寿円禅師顕彰祭
2009年7月22日(水)掲載


美祢市秋芳町の国特別天然記念物秋芳洞で20日、「雨ごい開山」と呼ばれ、秋芳洞最初の入洞者とされる寿円禅師の遺徳をしのぶ顕彰祭があった。秋芳洞の開洞100周年を記念したもので、約25年ぶりの開催という。

秋芳町史などによると、寿円禅師は1354(正平9)年の干ばつ時、地元の村人から恐れられていた秋芳洞に1人で入って雨ごいの修法を行い、成就すると洞内の濁流に投身入寂したとされる。村人は「雨ごい開山」と呼び、遺灰で坐像(県指定有形文化財)を作るなど深く信仰してきた。
秋芳洞を観光開発した梅原文次郎も1909(明治42)年の開窟(くつ)式などで寿円禅師の遺業をたたえている。

顕彰祭では、寿円禅師をまつる美祢市秋芳町秋吉の自住禅寺(大庭諦道住職)を先導に、あでやかな髪飾りや烏帽子姿の地元園児25人による稚児行列が市観光センターから秋芳洞商店街を歩き、秋芳洞入り口近くにある遺灰像の収納堂方面に設けた祭壇に参列。位牌「開闢(かいびゃく)始祖 大洞寿円大和尚」に向けて祭文が読み上げられたり園児たちが焼香したほか、地元のカルスト草炎太鼓が奉納演奏して、寿円禅師の遺徳をしのんだ。
http://www.minato-yamaguchi.co.jp/yama/news/digest/2009/0722/8p.html

それにしても、寿円禅師という方、少なくともネット上では、伝記的なデータ、つまり何処でどのような家系に生まれて、坊さんとして何処の寺でどんな師匠について修行したのかということが徹底的に欠けている感じがする。そういうのは、(上の記事にあるように)『秋芳町史』などを覯るべきなのか。ところで、「美祢市観光協会」の「スタッフ・ブログ」によると、「寿円禅師伝説」は「河童」信仰とも関係しているという*3
さて、「注目すべきは景清片目伝説ではないかと思う」という。そして参照されるのは「一目連」。Wikipediaの「天目一箇神」の項が引かれる;

一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)は多度大社(三重県桑名市多度町)別宮の一目連神社の祭神の天目一箇神と同一視されるが、本来は片目が潰れてしまった龍神であり、習合し同一視されるようになったという。

一目連は天候(風)を司る神とされ、江戸時代には伊勢湾での海難防止の祈願と雨乞いが盛んに行なわれた。柳田國男は伊勢湾を航行する船乗りが多度山の様子から天候の変化を予測したことから生まれた信仰と考察しているが、養老山地の南端に位置する多度山は伊勢湾北部周辺の山としてはもっとも伊勢湾から近く、山にかかる霧などの様子から天候の変化の予測に適した山だったのであろう。

『和漢三才図会』の「颶(うみのおほかせ)」に「按勢州尾州濃州驒州有不時暴風至俗稱之一目連以爲神風其吹也抜樹仆巖壞屋爲不破裂者惟一路而不傷也處焉勢州桑名郡多度山有一目連」との記述があるが、伊勢・尾張・美濃・飛騨では一目連が神社を出て暴れると暴風が起きるとの伝承によるものと考えられている。一目連神社の社殿には扉がないが、一目連が神威を発揮するために自由に出入りできるようにとの配慮であるという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E7%9B%AE%E4%B8%80%E7%AE%87%E7%A5%9E

肝心の「一目連(いちもくれん、ひとつめのむらじ)は多度大社(三重県桑名市多度町)別宮の一目連神社の祭神の天目一箇神と同一視されるが、本来は片目が潰れてしまった龍神であり、習合し同一視されるようになったという」という部分の典拠が示されていない。ただ、「多度大社」のサイトを見ても、この「同一視」はほぼオフィシャルなものといっていいだろう*4。また「天目一箇神」については、Wikipediaでも参考文献として挙げられている谷川健一*5『青銅の神の足跡』が参照されるべきではあろう。ただ「片目」と「雨」とを繋ぐ宗教的・呪術的ロジックが見えてこないのだ。「片目」問題については、広坂さんの某エントリーとの関連でも言及したいとは思っていたのだった*6。たしかに「片目」と霊力とは関係がある。つまり、不足若しくは過剰(「片目」の場合は不足)をつくりだすことによって、一般的な存在者が有していない両義的な力を徴しづけることができるからだ*7。しかし、それと「雨」との繋がりはわからないのだ。
青銅の神の足跡 (集英社文庫)

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