「色彩」を持っていたのに

中山幸雄「村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(文藝春秋、2013)(再読)」https://yukionakayama.hatenablog.com/entry/2019/05/18/000000


村上春樹色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年*1について。


物語の中で重要な位置を占めると思いきや、
その後のなりゆきがわからないままになってしまった箇所もある。
大学時代、つくるの数少ない友人で突然故郷に帰った灰田。
大分県山中の温泉宿で灰田の父が青年だった頃出会ったピアニスト、緑川。
作家本人さえ展開の分からない光景だったと考えれば
それも自然なことに思える。
僕たちが生きる現実も、どれが物語の本筋で、どこが脇筋なのか、
予測はしばしば外れ、自分でもまったく思わなかった光景が広がることがある。
私は、「灰田」や「緑川」が何時小説に回帰してくるのか、読みながらずっと待っていて、待っているうちに読み終わってしまった。
さて、今気づいたのだけど、「灰田」も「緑川」も「色彩」を持っている! 「色彩を持たない」のは「多崎つくる」と「木元沙羅」だけか。