「オープン・エンド」そして「名古屋」問題

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹 雑文集 (新潮文庫)

村上春樹「ポスト・コミュニズムの世界からの質問」(in 『村上春樹雑文集』*1、pp.447-458)の中の問答;


――あなたの小説はだいたいにおいて「オープン・エンド」になっています。あなたが解決を読者にゆだねている理由はなんでしょう?


ミステリ小説であれば、最後に犯人の解明が必要になります。昔話ではおしまいに「めでたしめでたし」がなくてはなりません。小話であれば最後におちが必要になります。宝くじでは当選番号の発表が必要です。競馬では順位が大きな意味を持ちます。しかし僕が書く小説は、ありがたいことに、そのような最終的な明白な結論を必要としていません。必要がないものを無理して書く必要はない、ということです。僕は明白な結末というのが好きではないのです。日常生活のほとんどの局面において、そんなものは存在しないわけですから。(p.456)

村上春樹雑文集』と略並行して、『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年*2を読んでいた。これも「オープン・エンド」である。さて、この小説の特色のひとつは名古屋人が主人公だということだ。主人公である「多崎つくる」が被る数々の不幸も名古屋を捨てた罰だと解釈とできないこともない。何故村上春樹が名古屋人の物語を書いたのか。神戸でも東京でもなく。まあ、名古屋人といっても、別に中日ドラゴンズのファンでもなく海老フライを食べるわけでもないのだけど。村上春樹の「名古屋」問題というのはどのように論じられているのだろうか。不人気を挽回するためには天敵であるタモリにまで縋る名古屋だから*3村上春樹を脅迫して「名古屋」小説を書かせたとしても不思議ではないのだけれど。マジな話、重要なトポス、第三のトポスとして、「浜松」も登場するのだけれど。