そのこころは

こころ (新潮文庫)

こころ (新潮文庫)

「学生時代に読んでおくべきだった―夏目漱石『こころ』」http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20160829/1472448393


広坂さんは夏目漱石の『こころ』*1をなかなか読み通すことができなかったのだという。何故読めなかったのかを省察している。少し切り取らせていただく。


(前略)ただ、学生時代の私がどうしてこの面白い小説を読めなかったのか、単に読み通すことができなかっただけではなく読むことが苦痛だったのかはわかった。若いころの私は、作中で「先生」と呼ばれる人物が、語り手にとって尊敬に値する隠れた思想家のように描かれていることに引っかかったのであった。さらに言えば、後半の先生の遺書の中に出てくる友人Kもまた、先生にとって尊敬すべき求道者のような青年として描かれている。

ところが、この「先生」とは、ただ食うに困らないだけではなく結婚して所帯をかまえてなお無職でいられるほどの親の遺産をもらって暮らしているだけの裕福な若者にすぎない。

まだ学生の語り手から見れば、すぐれた先輩に見えたことだろう。その気持ちは私も学生だったからわかる。今風にたとえるなら、学部生から見れば、優れた成績を挙げながら何年も就職が決まらないのに焦った様子を見せないポスドクの先輩は、高遠な志を秘めている人のように見えるだろう。

実際に漱石はそのように描いている。ただそれは学生の視点から描いているからそう見えるのであって、実際の「先生」は、実家が非常に裕福なので就職活動にあくせくしないですんでいるだけのインテリ青年にすぎないのである。ところが、語り手にはそれが見抜けない。ついでに言えば、「先生」の友人Kも「先生」の視点からは求道者風に見えるのだが、実際は世間知らずの一途な学生にすぎない。

語り手がそれを見抜けない理由は二つ。語り手が「先生」に恋をしているからである。これは物語の前半で「先生」のセリフによって指摘されている。もう一つは、語り手自身が裕福な地方の旧家の子で、いざとなれば親の家を継ぐという選択肢があったからである。これも物語中盤で暗示されている。

若かった私がこうした漱石の設定に気づかなかったのは、なにやら深遠なテーマが展開されているらしいという、どこで刷り込まれたのだか見当違いな期待によって、物語の先を急ぐあまり前半を飛ばし読みしていたからである。海水浴場での一目ぼれに近い「先生」との出会いや、実家の父が病気に倒れて語り手が一時帰省するエピソードは大事な伏線だったわけだ。

要するに、高等遊民の話。『こころ』に限らず夏目漱石の作品を語る上で、高等遊民というのは外すことのできない鍵言葉であろう。『こころ』の「先生」とともに、代表的な漱石高等遊民であるといえる『それから』の「長井代助」とか*2。この主題について、池田光博「漱石文学における「高等遊民」について」(『国語教育研究』7、1963)を取り敢えずマークしておく*3
それから (新潮文庫)

それから (新潮文庫)


『こころ』をややこしくしている原因の一つは、「先生」の自死の正当化として、唐突というか取って付けたような仕方で、〈明治の終焉〉=乃木希典大将*4切腹が持ち出されることでもある。