矯正の話

白岩玄*1「「これ以上男らしく生きるのは無理」 コップの水があふれるように気持ちが限界を超えた」https://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018100314861.html


曰く、


昔、たぶん五歳くらいの頃だと思うが、父に歩き方を直されたことがある。当時のぼくの歩き方は、足のつま先が内側に入っていたので、父が「それじゃなよなよして見える、男の子ならもっと外側に開いて歩け」と注意してきたのだ。指導員となった父の横で、自然と内側に入ってしまう自分のつま先を、意識して外に向けながら歩いたことを今でもよく覚えている。

とはいえ、直されたことについては、何の感情も持っていない。実際そのときも「そういうものか」と素直に従った記憶があるし、のちのち違和感を覚えて元に戻したりもしなかった。ただ、今の自分がその出来事を振り返ってどう感じるかと言われたら、そこには父の、自覚すらしていない偏見がうかがえるというか、彼は息子のぼくに男らしい人間になってほしかったんだなとは思う。

男らしさというのは奇妙なものだ。ぼく自身、特に好んで意識してきたわけではないのに、いつのまにかそういうものを気にする男性になってしまっている。男は人前で泣かない、弱音や愚痴を吐かないなどの「やってはいけないこと」はもちろん、仕事ができる、運転がうまい、スポーツが得意など、「世の中の人が男性に期待すること」に至るまで、どこかで自分がそういった条件をクリアしなければいけないような気がしてしまう。

「つま先」の向きが気になる人もいるんだな。
ところで、息子が5歳の頃、自分のことを「わたし」と言っていた。幼稚園は中国語や英語といった非日本語環境だったし、日本語におけるジェンダー化された人称代名詞を教えていなかったのだ。或るとき、男の子はね、自分のことを「ぼく」と言った方がいいんだよと注意してくれた人がいた。それ以来、息子は「わたし」を使うことを意図的に止めて、「ぼく」を使うようになった。