「小説を読むということ」(金井美恵子)

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

往古来今 (文春文庫 い 94-1)

金井美恵子「『往古来今』を読む」*1(in 磯﨑憲一郎『往古来今』、pp.197-205)


曰く、


小説を読むこと(書くこと、と言ってもほぼ同様かもしれないのだが)で私たちが経験する〈幸福な時間〉などというものは、しかし、幸福という言葉を使ったのが間違いだったかもしれないという疑いや不安や緊張を強いる奇妙で複雑なものかもしれない。
小説を読むということは(あるいは書くということは)、私たちの持っている様々な記憶の中の、言葉で書かれた本や、映画や、町や公園や山や川といった空間で出来た世界の、無数の輝いてざらついていて、しかも平板な断片が、今読んでいる小説と、何枚もの布地*2としてところどころで縫いあわされ、混じりあいつながっていることを(それは、裏返しだったり、重なり具合がずれて、幾重ものヒダになっていたりもする)確認することだ。
私たちは、もちろん、今ここで読んでいる小説(テクストと呼ばれ、批評することが出来ると信じられてもいる)が、単にここにある言葉で書かれた一冊の本*3として成立しているだけではないことを、よく知っているはずなのだ。
私たちの記憶が、世界と自己の接する時に軋みながらたてる音や響き(世界と君との闘いでは世界を支援せよ、と、カフカは書く)、光や風、声や色、形、匂い、味、手ざわり、皮膚に伝わるなまなましい感触といったものとの邂逅によって、ほとんど不意に立ちあらわれるものである以上、記憶も、そしてなにより小説も、いつだって水のようにあふれる(川の流水や海の波、地下水)他者の侵蝕に接している。(pp.199-200)

*1:See https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/05/07/112644 https://sumita-m.hatenadiary.com/entry/2019/06/10/095239

*2:「テクスチャー」というルビ。

*3:「テクスト」というルビ。