他者を拒むことによって

白岩玄*1「 「適当に書いてさっさと出せよ」……華々しい作家デビューの裏で崩れゆく人間関係と自信」http://www.asahi.com/and_M/articles/SDI2018032254211.html



デビュー作を出して、第二作がなかなか書けなかった頃の話。


仕事もプライベートも行き詰まっていたら、しんどいのは当然だ。ただ、どうして行き詰まっていたのかをあらためて考えると、案外しょうもない理由だったのかもなと思う。あのとき、ぼくは自分の中に他人を入れようとしなかった。かたくなに自分の考えにこだわって、それを手放そうとしなかった。

 書きたいものを書くだけの技術がないのなら、ひとまず自分の持っているものを捨てて、何かをまねしてみたり、誰かに教えを請えばいい。家族や友だちから耳の痛いことを言われているなら、まずはそれをひとつの事実だと受け止めて、その上で自分なりの答えを出せばいい。重要なのは、他人(それはたとえばペットや自然でもいい)を自分の中に住まわせることなのだ。そうしなければ、膠着(こうちゃく)した状況は動かないし、今と違う景色を見ることもできない。

 あのときのぼくは、他人から学ぼうともしなければ、そういうことができるだけの素直さも持っていなかった。自分が認めた人以外の話を聞くのが嫌いで、かといって自ら動いて力をつける努力をしないような人間だった。そんな奴が挫折したところで、すぐに乗り越えられるわけがない。

 パソコンの前に座っても、一行も書けないまま一日が過ぎていき、過去の栄光にすがるように、毎日ネットでエゴサーチ(ネット上にある自身の評価を確認する行為)をしていた。エゴサーチの一番の問題は、他人の評価を気にしすぎて、自分の評価を自分でできなくなってしまうことだ。自分の感覚を信じられなくなると、小説はますます書けなくなる。

 結局、そんな状態が1年続いて、ようやくぼくは2作目を少しずつ書き進められるようになった。何か特別なきっかけがあったわけじゃない。そこまで来ると、変わろうとしない頑固さが、新しい土台のようなものになっただけだ。

具体的に言えば、「絶対に他のものなんか書かない」としつこく原稿に向き合い、問題点がどこにあるのかを考え続けたことで、作品を修正していく力がついた。過去の自分が書いたものを、むやみに否定することなく「ここは直そう」と思えるようになったら、それは自分の中に自分ではない「赤ペン先生」を住まわせているのと同じことだ。

他者を巡るパラドクス。他者を拒むことによって却って他者に支配され、他者を「自分の中に住まわせる」ことによって、自らの自律性を確保することができる。別の言い方をすると、適切に社会化が行なわれることによってこそ社会からの距離を確保することができる。