「の」と「なる」

近代秀歌 (岩波新書)

近代秀歌 (岩波新書)

永田和宏『近代秀歌』について、「個々の歌の解釈については、歌における言葉が醸し出すリズムが重視されている」ということを述べたのだが*1、その一つの例。
佐佐木信綱の、


ゆく秋の大和の国の薬師寺の塔の上なる一ひらの雲
について、

(前略)大和の国という大きな景の把握から、薬師寺、塔と次第に焦点を絞り、一転、そこから視線をぐんと高く、遠くまで飛ばせてひとひらの雲に移動させる。そのような対象の移動が、すべて「の」という助詞によって行われているのである。規則正しく六回も繰りかえされる「の」の音は、のびやかなリズムを与えている。
なかでも第四句「塔の上なる」の「なる」の働きが抜群だと、私自身は思っている。もし、この部分が、もう一つの「の」で繋がっていくとすると、この歌の持っている、ゆったりと景が動いていくような感じは出て来なかっただろう。景が立体感の薄い、べたっと平面的なものになっていたかもしれない。信綱がどこまで意識したのかはともかく、その研ぎ澄まされた音感が、ここ一ヵ所でのみ「なる」という助動詞を採用したのだと思いたい。(pp.140-141)
序でに、同じ佐佐木信綱が奥州平泉の毛越寺を詠んだ、

大門のいしずゑ苔にうづもれて七堂伽藍ただ秋の風*2
に触れての、

歴史的な建物、旧蹟を訪ねることは、空間的にはその「場所」に到ることでもあるが、もう一方で、「時間」を遡って、歴史を追体験することでもある。時間と空間を二つながらに移動することによって、その場を訪れることに意味が生まれる。歴史を知らないで旧蹟を訪ねても、ほとんど何の興味もわかないものだ。(p.142)
というパラグラフも書き写しておく。