「天體のごとき量感」

現代秀歌 (岩波新書)

現代秀歌 (岩波新書)

永田和宏『現代秀歌』*1から。
浜田到の


死に際を思ひてありし一日のたとへば天體のごとき量感もてり
という短歌に寄せて曰く、

自らの死を思うとき、人はもっとも孤りである。どれほど愛した人が居ても、死ぬときは、言うまでもなくたった孤りで死んでいかねばならない。たとえ心中という選択をしたとしても、死の向こうには孤りだけの世界しかないことを誰も知っている。普段はできるだけ思い出さないようにしているけれど。(p.203)

この一首では、「死に際」を思っているのである。死の間際、それはどのような感情として自らにたちのぼってくるのだろうか。暗闇としてだろうか。安息としてだろうか。そのような死の思念のなかに佇んでいると、その一日が「天體のごとき量感」をもって感じられたというのである。死という無辺際への思いが、宇宙に漂う天体のような量感とともに、作者の一日を領したのであろう。(p.204)
なお、

浜田到は「死を思う」人であった。怖れるのでも、望むのでもなく、死とは何か、生存にとって死はどのような意味を持っているのかを、考え続けた歌人であったと言っていいのかもしれない。浜田の思う死とは、しかし決して現実の死ではない。あくまでメタフィジカルな死、すなわち形而上学的な死そのものであった。(p.203)
さて、上田三四二

死はそこに抗ひがたく立つゆゑに生きてゐる一日一日はいづみ(p.242)
ここでは、「一日」は「ひとひ」と訓む。