アナログな話

知の技法: 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト

知の技法: 東京大学教養学部「基礎演習」テキスト

柴田元幸「翻訳――作品の声を聞く」(in 小林康夫、船曳健夫編『知の技法』東京大学出版会、1994、pp.62-77)*1


曰く、


ところで、さっきから作品の「声」を聞く、という漠然とした比喩を何度も使っていますが、これは翻訳者に限らず、読むという行為全般に当てはまる比喩だと思います。偉そうな言い方で恐縮ですが、意識的に「聞き取る」のではなく、自然と「聞こえてくる」。作品の「感じ」――それをつかんだ気になれることが、要するに「読んだ」ということではないでしょうか。「読者」とは「翻訳者」から「第二の言語に変換して外に出す」部分を抜いた存在であり、いわばオーディオ装置のスピーカー部分を抜いたようなものです。「聞く」という入力部はさしずめ、針先を通して伝わってくるレコード盤の微妙なデコボコを繊細に感知するカートリッジみたいなもので、この部分に関しては翻訳者も読者も同じことです(本当はCDプレーヤーを引合いに出す方が現代的なのでしょうが、はてしなくゼロとイチを読み取る、というのはどうもこの場合比喩としてうまくないので)。
授業で大学1年生と一緒に文学作品を読んでいていつも改めて驚かされるのは、作品の「意味」なり「メッセージ」なりを探し、「作者は何を言おうとしているか」を解読しようとしながら読み進める、はっきりした目的意識をもった読み方をする人がとても多いということです。これはかならずしも得策ではありません。はっきりとした目的意識というと聞こえはいいですが、要するにそれは、読みの可能性をはじめから限定してしまうことだからです。微小な物理的振動の形で伝わってくるすべての音を電気信号に変換すべきカートリッジが、最初からある種の、「意味」として認知できそうな音だけをサーチしてしまっているわけです。ついでにいえば、大学生はきちんと自分の目的意識をもって勉強や生活をしなくてはいけない、というような言い方も有害だと思います(まあそんなことを本気で聞く大学生はほとんどいないだろうから、有害といっても大したことはないのですが、でも、文章を読む段になると、結構みんな本気で「目的意識」を持ちだすので困ります)。(p.68)
さて、後の方で、柴田氏は「僕のような新米の英語翻訳者」という言い方をしている(p.70)。21世紀になった暫く経った、平成も終わらんとしている現在の私たちにとって、英語、特に米国文学の翻訳者ということで真っ先に思い浮かぶのは柴田元幸であって、柴田氏が「新米」なら古米は誰だよ? ということになるのだが、思い起こせば、このテクストは約4分の1世紀前のテクストなのだった。その頃は、ここで使われているアナログ・レコード・プレイヤーの比喩のリアリティも原罪より強かったというべきなのだろうか。