- 作者: 小林康夫,船曳建夫
- 出版社/メーカー: 東京大学出版会
- 発売日: 1994/04/08
- メディア: 単行本
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柴田元幸*1「翻訳――作品の声を聞く」(in 小林康夫、船曳健夫編『知の技法』東京大学出版会、1994、pp.62-77)
曰く、
勿論、柴田氏のこのテクストはソフィア・コッポラの映画『ロスト・イン・トランスレーション』*4が公開されるよりも遥かに前に書かれ・発表されたものだ。私もその映画を観る以前にこのテクストを(少なくともいい加減には)読んでいる筈なのだった。しかし、映画を観たときに、このテクストが念頭に浮かぶということはなかった。つまり、Lost in Translationは何処かに行方不明になっていたわけだ(lost)。
完全な翻訳はありえない――そもそも、Traduttore, trafitoreが、日本語に訳されて「翻訳者は裏切り者」になってしまうという事実が、それを物語っています。たしかに、「翻訳に誤訳はつきもの」という表面的な意味は伝わっています。けれども、「トラドゥットーレ」と「トラディトーレ」という音の類似が生みだす「シャレっ気」は伝わっていません。同じような例を日本語で作ってみれば、もっとはっきりするでしょう。たとえば、「小説家は剽窃家」。すなわちその意味するところは、「小説に盗作はつきもの」(?)。これをイタリア語に訳して、Romanziere, plagiarioと言ってみても、面白くもなんともありません(略)あるいは、「編集者は偏執者」。すなわち、「編集に倒錯はつきもの」(??)。これをフランス語でLes redacteurs sont pervertisと言ってみたところで、翻訳についてよく口にされるフレーズを使うなら、肝腎のシャレはまさに”lost in translation”なのです。
実際、「完全な翻訳の不可能性」を論じようと思ったら、例はいくらでも作れます。”Madam, I'm Adam”というアダムがイヴに言った人類初の自己紹介の言葉は、回文だからこそ面白いのであって、「マダム、僕がアダムだ」と訳しても「それがどうした」ということになってしまいます。「陰に酔いしれ、牛、嬉しい夜逃げか」*2だって、どんな立派な英訳に仕立て上げたところで、一番のカンドコロはやっぱりlost in translationでしょう。(pp.62-62)*3
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*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061215/1166150835 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080204/1202096588 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20150323/1427091367 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20170904/1504545310 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20180118/1516247253
*2:石津ちひろ、長新太『まさかさかさま 動物回文集』からの引用。
*3:引用に当たって、オリジナルのカンマとピリオドを、普通の句読点に改竄した。
*4:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070213/1171341875 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080224/1203784028 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090210/1234250786 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091020/1256012743 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091223/1261534214 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20131203/1385998415