「原始的カオス」への「奉献」

英米文学にみる家族像―関係の幻想 (MINERVA英米文学ライブラリー)

英米文学にみる家族像―関係の幻想 (MINERVA英米文学ライブラリー)

久守和子「『嵐が丘』の家族像――バルチュスの挿絵を手がかりに」 in 久守和子、高田賢一、中村邦生編『英米文学にみる家族像 関係の幻想』ミネルヴァ書房、1997、pp.71-93)


バルテュス*1は1933年頃からエミリー・ブロンテ嵐が丘*2の挿絵の制作を試みているが、それは「キャサリンの死」=第15章で打ち切られている(pp.71-73)。「(前略)少年期から青年期に至るヒースクリフの、起伏に富むきわめて不安定なキャサリンとの関係のありようが画家バルチュスに大きな芸術的示唆を与え、そのためにかえって、後半の彼女の死後の物語が関心を引くに至らなかったと解釈できよう」(p.75)。
さて、この論文の最後を抜き書きしておく;


ワザリング・ハイツ閉鎖は、言わば死後ともに亡霊になってさまようキャサリンヒースクリフとに明け渡すべく、原始的カオスへこの屋敷を奉献するという宇宙論的意味合いを担っているのである。キャサリンの母代わり、唯一の助言者であるネリーのおぞましほどの世間智、神の名のもとに主人の家族一人ひとりを裁くジョウゼフの狂信的独善。この二人は、生前キャサリンの周囲に幾重にも張り巡らされた世俗的知恵の限界と、自己救済に囚われた宗教的偏屈を示すと言えよう。キャサリンヒースクリフの遺体は、荒野がすでに侵食しつつあるギマトン教会付属墓地に埋められる。作品最終の第三四章で墓を訪れるロックウッドが証言するように、牧師禄増額を拒否する教区信徒によって閉鎖を余儀なくされた教会堂は、窓ガラスが割れ、秋の嵐とともに崩れ落ちることは想像に難くない。
囲い込みに徹する近代農業と資本主義経済に支えられ、スラッシュクロス・グレンジ屋敷は世間智の権化ネリーの采配のもと、若者ヘアトンとキャシーの新しい住み家となる。他方、教会堂と同じく荒野の中の廃墟と化すワザリング・ハイツには、人間を超絶する憎悪と、他者を侵し破壊し尽くさんばかりの愛の情念をもつ亡霊たちが君臨し、地獄門の番人ジョウゼフがそこを護衛する。この対比的配置こそ、時間が一巡りしたあげくの果ての、ある一つの反転した新たな家族像を示しているのではなかろうか。家族という磁場には、子孫繁栄をもくろむ日常的凡庸さと、これを根本的に突き崩し超越する情念が常時渦巻いている。バルチュスとブロンテは、種の防衛本能に対し、時にこれと拮抗する破壊的情念が逆説的に創造を刺激することを看破し、関係の不安定さを大胆に圧縮表現する絵画的構図と、破壊行為が遠く二家族三世代に及ぼす余波一つひとつに至るまで精緻に掬い上げる言語表現によってこのカオスの中の家族像を見事な芸術的高みに昇華させたのである。(p.92)
Wuthering Heights

Wuthering Heights

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)

嵐が丘 (1960年) (岩波文庫)