無知の告白或いは「ふ」と「ほ」

承前*1

イッコウ*2「必修以外の多くの科目が抽選形式になった――追手門学院大学履修登録を巡り混乱 「爆竹が投げ込まれた」とするデマも」http://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/1704/06/news065.html


追手門学院大学の教務課に「爆竹」が投げ込まれたというのは「デマ」だったということか。
大学の「広報課」への取材の結果;


なお「爆竹が投げ込まれた」とするウワサについては、同大学のサイトでも否定されている*3。ウワサが広まった理由については「隣にある神社でお祭りが行われており、花火が打ち上がった。その音を聞いた学生が『爆竹でも投げ込まれたんじゃないか』と冗談で言うなどして広まったのではないかと推測している。爆竹については教務課の誰も見ていない」と語った。
まあ、「爆竹」と「花火」はサウンドとして違うということもあるのだが、嗅覚に関する報告がないので、爆竹は投げ込まれなかったということなのだろう。ただ、「隣にある神社」の「お祭り」は毎年行われている筈で、「花火」も例年通りの筈なのに、今年はその「花火」が教務課に投げ込まれた「爆竹」と改釈されてしまったというのも興味深い。
さて、「追手門」てどんな門だい? と疑問を書いたのだが、どうもまたまた自分の無知を曝してしまったようだ(汗)。「追手門」とは「大手門」と同義だったのね。

大手門(おおてもん)とは、日本の城郭における内部二の丸または、三の丸などの曲輪へ通じる大手虎口に設けられた城門。正門にあたる。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%89%8B%E9%96%80

元は追手門(おうてもん)と書かれ、高知城など、城によっては現在も追手門と表記しているところもある。これに対して背面の門は搦手門(からめてもん)と呼ばれる。(ibid.)
また、

城の正面を大手といい、正面から城に入る門を大手門、もしくは追手門と呼ぶ。
追手とは城の裏側(高知城では北門と西門)から兵を出し、敵を正面に追い込むことを意味する。この追手が大手に転訛したという。高知城大手には追手門が、櫓門と桝形石垣、塀と共に現存する。古地図を見ると、土橋と桝形の間に柵があり、幅広い土橋は「橋桝形」というもう一つの虎口を形成していた。追手門櫓の2階は、内側が石垣よりせり出した懸造りで、櫓下の門を潜る敵に対し、床板を外して頭上から攻撃できる。また桝形虎口入口南には、武者隠の区画が塀と共に残っている。
(「高知城・追手門」http://www.massage117.com/pc-kochi-siro-ootemon-1.html
現存する「追手門」はこの高知城青森県弘前城*4。「追手門学院大学」の「追手門」は何処の城の「追手門」? 大学サイトの「沿革」でも、「追手門学院」という校名の由来については言及されていない*5。ただ、追手門学院大学の「第1回入学式は、[1966年]4月23日本学院にゆかり深い大阪城のほとりの府立厚生会館(当時)大ホールにおいて挙行された」とある。但し、大阪城は「追手門」ではなく「大手門」。さて?
ところで、「追手門」にしても「大手門」にしても、耳で聴く限りでは、どちらもオーテモンである。しかし、書き言葉(仮名遣い)という水準では違う。オウテモンとオオテモン*6。正仮名で書くと、おふてもんおほてもん*7。現代の日本語に見られるおふおほの混同は何時ぐらいまで遡ることができるのか。