市長の言い分から

承前*1

常見陽平*2「西宮市長は「不良自慢」をしたのか?メディアの文脈切り取り型報道を問う 記者会見文字起こし」http://bylines.news.yahoo.co.jp/tsunemiyohei/20161222-00065779/


西宮市の今村岳司市長が中学生・高校生との対話集会で中学・高校時代の「不良自慢」をしていたんじゃないかと騒動になった事件。上のテクストは、今村岳司市長の釈明記者会見のトランスクリプションを全文引用している。騒ぎに火を点けた『神戸新聞』の記事*3とかがつくり出す印象とこの「会見」を読んで得られる印象はたしかにかなり違う。また、『神戸新聞』を初めとしたメディアの報道は、現場に居合わせた記者の印象や知見に基づくものではなく、その場に立ち会っていた某市会議員の個人的感想をベースにしたものであったらしい(この市会議員は今村氏に「ピンクのダサいスーツに黒縁眼鏡で『お下品ザマス!』って言っている女教師みたい」とdisられた「女性市議」と同一人物なのだろうか)。
さて、「不良自慢」でなかったとしても、今村氏が自らの「不良行為」に言及したことは事実だろう。それで思い出したのは、人生の個々のエピソードをライフ・ヒストリーに統合することが可能なのかどうかという問題*4。らのライフ・ヒストリーの一部として他者にお気軽に語ることができるかどうか。今村氏にとっては、高校時代の喫煙経験などは、自らのライフ・ヒストリーの一部として何の躊躇もなく、語ることができる。つまり、このエピソードは人生という全体に統合されている。しかし、所謂「カルト」の(元)信者や酷い犯罪の被害者は自らの集団経験や被害経験を自らのライフ・ヒストリーに統合することが困難になる。これは暴力や犯罪の加害者にも当て嵌まる。過去の「不良行為」ということだけど、例えば万引きとかなら(時効になっている限りで)まあ語ることはできるだろう。しかし、殺人やレイプはもうしゃれにならない。或いは、いじめに荷担していじめた奴が自殺してしまったというエピソードを語るには〈告白の勇気〉が必要であろう。
逆に、或る振る舞いが悪なのかどうかは、このライフ・ヒストリーへの統合可能性の大小に拠っているところが大きいのではないか。或ることをすべきかすべきでないか悩んだら、将来そのことを自分の子どもに話せるかどうかを考えるべきだろう。自慢話であれ失敗談であれ、お気軽に話せると思うならやればよろしいし、とても自分の子どもには話せない、或いは話すのにはかなり勇気が要るんじゃないかと思うなら、止めるべきだということだ。

ところで、何故中学生・高校生の飲酒・喫煙は禁止されるのか。それは、中学生・高校生に〈悪いこと〉をする権利を保証するためということか。