「社会というゲーム」(田崎英明)

ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

田崎英明*1「行為する――行為とジェンダー」(in 伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学*2、pp.60-73)からメモ。


私たちの社会は、野球やサッカーのように、先にルール・ブックがあって、それにしたがってプレイがはじまるようなゲームではない。すでにプレイがはじまっていて、社会学者も含めて、みんな、「この社会を構成しているのはこんなルールなのかもしれない」といって記述していかなければならない。野球やサッカーなら、審判というものがいて、ゲームのプレイヤーはその判断にしたがわなければならない。ところが、社会というゲームではそうではない。言語学者が、ネイティブ・スピーカーに「こういう言い方する?」と聞いて確認しなければならないように、プレイヤー自身が判断者であり、プレイヤーが納得する記述が求められる。ルール・ブックがあるゲームなら、審判が「私がルールだ」といえるかもしれないが、そんなものの存在しない「社会」というゲームでは、そのプレイヤーたちが納得しないなら、「あなたのしているのは、じつはこのようなゲームである」「あなたがしたがっているルールとはこのようなものである」という記述は(最終的には)成り立たたない。ルール・ブックに書いてある「野球は一チーム九人である」というようなことは、野球のゲームを観察して記述したものではない。そえは記述文のふりをしているが、じつは、「もしも、あなたが野球というゲームをしたいなら、九人で一チームをつくれ」という命令である。しかし、社会のルールには、そのような最初の命令者はいない。すべて記述するしかないのである。たしかに、国家や法には最初の命令者がいるかもしれない。しかし、そのような国家や法に合意を与え、それらの存在を実効あるものとする「社会」には、最初の命令者はいない。したがって、社会には、記述しかないのである。(pp.63-64)
なお、「記述」とは「言語の外部にあらかじめ存在する事実の描写として理解されるような言語の使用一般」である(p.62)。