「気分転換」の意味転換(メモ)

ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

西山哲郎「遊ぶ――スポーツがつくる「らしさ」」(in 伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学*1、pp.160-175)から少しメモ。


[元々は]日々の務めをしばし忘れることであったスポーツは、ビクトリア時代、イギリスのパブリック・スクールの校庭で厳密なルールにしたがった競争に限定されていった。産業活動や植民地経営を通じて権力をにぎったブルジョア(新興市民勢力)は、以前の支配者であった怠惰な貴族から自分たちを区別し、優越するためにも、心身を鍛えなければならなかった。そのための場がパブリック・スクールやクラブであり、その手段がスポーツであった。こうしてスポーツは、かつて遊びそのものであった内容の多くを失い、特殊な傾向の遊び(play)を意味するようになってしまった。
このように性質を変化させたスポーツは、目標達成のために努力を惜しまず、ゲームのなかで激しく競り合いながらもそのルールを破らず、骨身を削る争いの直後に笑顔でライバルと握手できる人間を生みだすようになった。こうした精神をもつことで、スポーツマンはブルジョアの道徳を理想的に表現している。ブルジョアの力の源である経済交換では、自由競争とルールの遵守という相反する二つのものが同時に必要になる。というより、相手の命さえ奪いかねない駆け引きをおこないながら、その争いがルールにしたがったものでありさえすれば強者が道徳的にも優れていると認められる奇妙な倫理観がないと、経済交換は小規模かつ断続的なものにとどまってしまって、資本主義社会は成り立たないのだ。一九世紀後半から二〇世紀前半のアマチュアリズムをともなったスポーツは、名誉以外の何も得られない争いに全力を尽くした勝者を讃えることで、そうした奇妙な倫理観を正当化するための文化装置でもあったのだ。(pp.160-161)
suportの意味転換=近代スポーツの誕生については、やはり松井良明『近代スポーツの誕生』をマークしておくべきだろう。
近代スポーツの誕生 (講談社現代新書)

近代スポーツの誕生 (講談社現代新書)

また、近代スポーツと学校制度との関係で重要なのは団体競技、或いは団体競技を通した〈ティーム〉という観念の身体化であろう。俗に西洋の個人主義、東洋の集団主義と言われるけれど、団体競技を発達させたのは近代西洋なのだった。間接統治を旨とした英国の殖民地支配においては、現地を仕切る現地人エリートの養成が不可欠だったが、そのエリート養成プログラムにはラグビーなどの英国流の団体競技を通しての〈ティーム〉という観念の身体化が組み込まれていた筈(Cf. Hobsbawm & Ranger (ed.) The Invention of Tradition*2)。
The Invention of Tradition (Canto)

The Invention of Tradition (Canto)