或る嚆矢

日本経済史

日本経済史

脇田修織豊政権から幕藩体制へ」(in 岡光夫、山崎隆三編『日本経済史―幕藩体制の経済構造―』)に曰く、


旧来の政治史・文化史では政権の所有者や所在地をとってよんだから、この時代は織豊時代徳川時代あるいは安土桃山時代、江戸時代とされた。このような名称は必ずしも時代とその社会の内容を検討したものではなかった。こうした問題に着目し、近世という呼称をはじめて使ったのは、内田銀蔵『日本近世史』(同文館、一九二一年)であった。そこでは大正デモクラシーの風潮を受けて、国民生活の発展を基準にした時代区分をおこない、近世社会の成立を評価したのであった。たしかに中世から近世への移行は、社会組織なり経済発展の上でも、明らかな段階差があったといいうる。(p.1)
因みに、私の祖父の名前も「銀蔵」。その銀蔵さんが「近世」という用語を発明したのかと、興味を持って検索してみた。Wikipediaによると、1908年に富山房から『 日本近世史 第一巻 上冊 第一』というのが出ている。内田は1919年に48歳で病没し、1921年から22年にかけて、同文館から「内田銀蔵遺稿全集」全5巻が出ており、その第三巻が『国史総論及日本近世史』である*1。脇田先生が言及しているのはこっちのことなのだろうか。1908年は「大正デモクラシー」以前というか、そもそもまだ明治なのだ。
内田は京大史学科の創設者でもあるが、京都大学大学院文学研究科・文学部によれば、

国史学第1講座は明治40(1907)年5月、史学科の開設に伴い、内田銀蔵(1872〜1919)を教授として発足、9月に開講された。開設に先立ち内田は明治36(1903)年正月、イギリスに学び、次いでフランス、ドイツ、オランダを歴遊、当時、勃興しつつあった20世紀初頭の最新のヨーロッパ史学の諸潮流を吸収して明治39(1906)年5月に帰国している。内田の学問への関心は広く、歴史学を事件史や個人史からなる旧来の狭い範囲の政治史にとどめようとせず、経済社会の動向や歴史理論に分析の目を向けている。内田の構想では、史学科の中に国史学・史学地理学・東洋史学・考古学を含んでおり、こうした諸学からなる総合的な学問を意図していた。創設以来、国史総論のほか日本経済史、日本近世史を講じ、大正2(1913)年には日本社会史を講義している。内田は大正8(1919)年、にわかに死去するが、死後『日本経済史の研究』『国史総論及日本近世史』『史学研究法及史学理論』(1921年)が刊行された。
(「日本史研究室の歩み」http://www.bun.kyoto-u.ac.jp/japanese_history/jh-ayumi/
ということで、最初「近世」という言葉の起源は大正時代なのかと思ったのだが、どうやら明治末に遡るようだ。
北千住の内田銀蔵の生家と墓所について;


「清亮寺 内田銀蔵博士のことなど」http://toshiro5.blog.so-net.ne.jp/2012-04-18