カントにおける「自然」(メモ)

新・岩波講座 哲学〈5〉自然とコスモス

新・岩波講座 哲学〈5〉自然とコスモス

礒江景孜「自然と歴史」(in 『新・岩波講座哲学5 自然とコスモス』*1、pp.60-84)


イマニュエル・カントにおける「自然」観を巡って。
先ず、

自然は「神の業」(Werk Gottes)であり歴史は「人間の業」(Menschenwerk)であるというヴィコの考え方は、官途にもそのまま取り入れられており、しかもカントは近代自然科学の作業を認識論的にとらえ直して、科学的対象としての自然は人間によって「構成された自然」と解釈するのである。(p.64)

カントにおいても自然概念は多義的であって、近代自然科学における物理的自然、有機体としての自然、叡知的な自然(自然自体)が区別されうるだろう。
彼においては科学的認識は感性的所与の連関に関する客観的・普遍妥当的な言明であって、決して有るがままな物自体に関する言明ではない。換言すれば科学的認識は感性的世界を越えない。そして対象規定の一般法則は経験から由来する経験的法則ではなく、かえって経験の根柢にアプリオリに、すなわち主観の主観形式(空間・時間)および思惟カテゴリーの法則にしたがって直観の多様を綜合的に結合する認識作用のうちに求められる。科学的意味での客体は主観の諸形式の法則にしたがって現象の多様が綜合的に統一されたものである。簡潔にいえば、経験の
可能性の制約は同時に経験の対象の可能性の制約である。このコペルニクス的転回によって哲学の前面に現われてきた主観は、超越論的主観として自然秩序の中に場所をもたない自律性・自存性を獲得する。
こうして自然科学の自然はすべての可能的経験の客体であり、経験の諸対象である限りでのあらゆる事物の総括、一般法則にしたがって規定される限りでの事物の存在である。自然法則は自然自体の法則ではない。われわれの悟性は法則を自然から汲み取ってくるのではなく、法則を自然に対して指定するのである。
しかし自然は物理的自然の因果的規定に尽きるものではなく、自然経験において出会われる有機的自然は因果的‐機械的にも数学的にも規定されえない。植物、動物、人間は有機体(生命存在)としてはそれらの内的合目的性の規定の下で理論的に説明されなければならない。そこでは自然の合目的性概念が前提される。ただ科学的自然考察においては、自然のあらゆる所産や出来事を、最も合目的的なそれらさえも、われわれに可能な限り機械論的に認識するよう要求しているために、カントは統一科学理念の科学理論に与するものと解釈されがちである。(pp.65-66)