「小説」と「現在」(メモ)

辻 (新潮文庫)

辻 (新潮文庫)

大江健三郎古井由吉「詩を読む、時を眺める」*1(in 古井由吉『辻』、pp.321-366)から。


大江 古井さんの、ここ二十年ほどの小説を読んでいると、今現在あるものを束ねることの危うさと、それを文章で表現することに面白さを感じておられる機微がこもごもわかります。例えば『辻』で、分かれ道に男が立っていて、女が追い越していく時の緊迫感、濃密さ、明晰さというようなことが表現されています。ある場所でのある一瞬を表現することができれば、自分のこの作品に目指しているものは達成される、という気持ちで書いていられるように感じました。
古井 達成というのはやはり瞬間的なものですね。しばらく経てば何事でもないことに思えるのだけれど、瞬間的に達成を感じることはある。そういう達成が全編を照らすかどうかが小説の分かれ道です。僕の分担は「劇」が始まる前までだと思ってるんですよ。小説家はシナリオを書くわけでもないし、ましてや役者として舞台に立つわけではない。芝居の始まる前の雰囲気なり緊張感なりを小説の仕舞いに遺せるかどうか。(pp.340-341)

古井 とにもかくにも雰囲気や緊張や期待を含めて芝居の始まる前までの現在をあらわせるのなら、以て瞑すべしと思っています。
大江 小説というものは、もともと過去のことを書いていた。ところが、古井さんは小説で現在のことを書こうとされている。芝居というジャンルは舞台の上でやるから、現在を提示するのはたやすい。劇作家が準備した戯曲を演出家に渡せば、役者を通じて現在のものにしてくれる。それに比べて、小説家は自分で小説を現在に置かなくてはいけない。そして現実には、今現在それがここにあるというふうに書けている小説は少ない。
古井 確かに小説は本来は過去のことを書くもので、その証拠に過去形を使うととても書きやすいですね。自分の文体はどうしてこう不安定なのかと問えば、半過去や現在形が多いからだと気づきます。腰が定まらないのだと思う。
けれども、自分が過去のことを書いても、世の中から認知されるかどうか。その認知を私は期待できないと思うし、私の読者がいるとしたら、読者はそういう認知を求めてないと思う。だから、なんとか始まりに至る現在を全体として描けないものか、作り出せないものかと願うのです。(pp.341-342)
「芝居というジャンルは舞台の上でやるから、現在を提示するのはたやすい」。というか、「芝居」で過去を「提示する」ことが可能かどうかを問うべきでは? 「芝居」というのは、それが時代劇であろうがSFであろうが、「現在」でしかあり得ないのでは?
「半過去」の日本語ってどういう文なのだろうかと思った。「半過去」は「腰が定まらない」感じ、「不安定」につながるという。仏蘭西語において過去の完結した事態を表すには複合過去を使う。それに対して、未完結の事態には半過去を使う。決着がついているという意味では複合過去は安定しているといえるだろう。しかし、別の面から考えると、行為やその対象はもう何処にもないということになる。酒を飲んじゃったということは、既に酒は飲んでいないということだし、飲むべき酒も(私の体内に吸収されて)既にないということになる。それに対して、半過去によって表される未完結の事態は或る一定の期間の持続を含意することがある。例えば過去の状態や習慣。あの頃私は若かった。〈若い〉という状態は瞬間的なことでばなく、のっぺりと何年間だか知らないけど一定の期間持続し、何時の間にかに〈若くない〉状態に移行していたといえるだろう。同じようなこと或いは似たことの反復が日常的な安定をもたらすのだとしたら、半過去というのは過去における日常的な安定を表しているともいえる。
See also


「半過去形と複合過去形の違い」http://www.coelang.tufs.ac.jp/mt/fr/gmod/contents/explanation/061.html
「フランス語の3つの過去形」http://park5.wakwak.com/~fadat190/3kako.htm
「直説法半過去」http://park5.wakwak.com/~fadat190/hanka.htm
「(直説法)複合過去」http://park5.wakwak.com/~fadat190/fuka.htm