どっちのロイスダール? など

多和田葉子*1『尼僧とキューピッドの弓』から。理由は自分でもよくわからないけれど、この箇所を読んでいたら、書き写したくなった。


飛行機に乗って旅すると、人は巨人の脚をもらったように気が大きくなる。太平洋は水たまり、大西洋も水たまり、ひょっと飛び越えて、太陽を追い抜き、雲を見下ろして飛びまわることができる。世界地図が手のひらならば、ヨーロッパはひとさし指くらいの小ささで、ドイツはその一関節にも満たない。そこにある黒子がニーダーザクセン州なら、その州の中にあるハノーヴァーとブレーメンの間の距離は近すぎて目には見えない。ところが自転車に乗っていると、隣村に着く前に脚がタルタルになっている。とまると額から汗が噴き出す。ハノーヴァーもブレーメンも、決して行き着けないくらい遠いことが分かってくる。アメリカに行こうと思ってハンブルグを出発したのに、郊外のアルトナでもう脚が痛くなってしまった蟻の話を思い出した。リンゲルナッツの詩に出てくる蟻だ。今はわたし自身がその蟻だった。
道があまりにもまっすぐだから目的地があるように思えてしまって、そこにたどり着けないことがもどかしく思えてくるのかもしれない。道があって、ないような右手の風景にわざと迷い込んでみた。ならされていない土地には起伏があり、大きな起伏はないが、向こうに川があるように思わせるだけの意気込みが感じられた。向こう側に出てみると川はなく、小川のささやかなせせらぎすらなく、道は茶色く乾いて、そこにはまばらな影が落ちているだけだった。見上げれば、背の高い木が空に向かって悠々と伸びをしている。天使の出る幕はない。空にはちぎれた雲が引っかかったまま動かない。まるでロイスダールの絵の中に迷い込んでしまったかのようだった。と言ってもここはニーダーランデ、つまり低い土地と呼ばれるオランダではない。オランダならば、自転車をこいでいるうちにいつかは港について、そこから船に乗って、バタビアか出島までも遠出することができるだろうが、ここはニーダーランデではなく、ニーダーザクセン、閉ざされた内陸である。自転車を漕げばどこかへ行けると言うのか。踏めば、踏んだだけ、その力が回転力に翻訳されて、車輪*2は回転するが、地平線にこびりついた黒い筋には決してたどり着けない。どこまでも平野が広がっているということは、その広さ自体に閉じ込められているということだ。(pp.85-87)
詩人ヨアヒム・リンゲルナッツについては、


Wikipedia
https://en.wikipedia.org/wiki/Joachim_Ringelnatz
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%A2%E3%83%92%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E3%83%AB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%84


リンゲルナッツの「ハンブルクの蟻」という詩については、例えば、


ハンブルクの蟻」http://plaza.rakuten.co.jp/jppiano/diary/200506280000/
はらけんじ「リンゲルナッツのレポレロ本」http://harakenji.seesaa.net/article/17116972.html


をマークしておく。また、「ヨアヒム・リンゲルナッツ 「すかんぽ」」というエントリー*3では、かつて高田渡*4が採り上げた、リンゲルナッツの「スカンポ」について。ここで言及されている、


後日談があって、後年、高田渡がヨアヒム・リンゲルナッツの母国ドイツを訪れ、彼の国でリンゲルナッツを歌うミュージシャンと邂逅します。しかしドイツで演奏される「哀しい草」はどれも、高田渡が17歳の頃この詩に感じたメランコリックな音楽とはまったく異なる、ユーモアあふれる作品ばかりだったそうです。
というエピソード、NHKのBSの番組で視たことがある。DVDとかにはなっていないようだけど。
多和田さんの小説に戻る。「まるでロイスダールの絵の中に迷い込んでしまったかのようだった」。「ロイスダール」という姓のそれなりに有名な画家は少なくとも2人いるのだった。サロモン・ファン・ロイスダール*5とヤーコプ・ファン・ロイスダール*6。この2人は伯父と甥の関係にある。そして、どちらの作品も「雲」が前面化されているのだった。