ポリグロットという受難或いは「分身」

須賀敦子「『インド夜想曲』と分身」(in 『塩一トンの読書』*1、pp.38-42)


曰く、


そのタブッキ*2が、ポルトガル語から訳した、フェルナンド・ペソアという人の詩集が、最近、イタリアでもよく読まれているが、この詩人は、南アフリカで成人して、はたちぐらいのときに父祖の国ポルトガルに帰り、リスボンの貿易会社で手紙の翻訳などをして、じみな生涯を終えた。
ところが、彼も、孫悟空にまけないほどの、分身づくりの名人で、自分のほかに、ライフヒストリーも、名も異なった詩人を、三人もつくりあげ、まるでその人たちの作品みたいにして詩集を発表した(この種の仕掛けは、《異名*3》と呼ばれる)。文体までが、それぞれ、ずらせてあるという。タブッキが分身物語を書くようになったのも、このペソアとの出会いに端を発しているのだが、あるイタリア人の友人が、タブッキに熱中している私をからかって、言った。知らないのかい。タブッキはペソアがこの世に残していった異名のひとつにすぎないんだよ。(pp.39-40)

バイリングアルがよいなどと、人間を便利な機械に見たてたがる、無責任な意見が横行しているが、ものを書く人間にとって、また、自分のアイデンティティーを大切にする人間にとって、ふたつの異なった国語、あるいは言語をもつことは、ひとつの解放であるにせよ、同時に、分身、あるいは異名をつくりたくなるほどの、重荷になることもあるのではないか。ペソアの、異名のひとつ、アルヴァロ・デ・カンポスの作品にある、つぎのような詩行は、そんなつらさを伝えているようにも思える。

いまのぼくは なれるはずのなかったぼくで
みずからなることのできたぼくではない。
(池上籹夫編訳/ペソア詩集『ポルトガルの海』彩流社より)
複数の国語のあいだをたえず往来しなければならない、翻訳という仕事にかかわった詩人の直面する矛盾が、行間ににじんでいる。それは同時に、現実と虚構という、ふたつの異なった世界を往き来する、すべての作家の苦痛と不安でもあり、さらに、究極の自己完成とは、私たちの内部にある、異なった可能性のすべてを、忍耐ぶかく伸ばしてやる、複雑な作業なのだということを思い出させてもくれる。
タブッキも、イタリア語もフランス語も、ほとんど自国語のように操るポルトガル人の夫人とともに、ふたつ、あるいは三つの国語を日常に生きている。そのことが、彼の作品に、これまでのイタリア文学になかった種類の普遍性を付与しているのは確かだ。
翻訳では伝えられなかったかもしれないが、『インド夜想曲』も、原作では、英語とポルトガル語とイタリア語が、錯綜している。それらは、文の《組織》といったもののなかにまで、小石を抱きこんで伸びた木の根のように、浸透している。(pp.40-42)
インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

インド夜想曲 (白水Uブックス―海外小説の誘惑)

「分身」を巡っては、例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070219/1171905464 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070325/1174834138 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070818/1187410345 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090524/1243104118 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100506/1273160071 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100510/1273513883 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101126/1290795234 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110120/1295532154 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120130/1327943547 も。