『宝島』が休刊

雑誌『宝島』*1が休刊することを知る*2

ITmedia ニュース』の記事;


「宝島」休刊 創刊から41年 「定期雑誌の役割終える」

ITmedia ニュース 7月30日(木)14時29分配信


 宝島社は7月29日、月刊誌「宝島」と女性向けファッション誌「CUTiE」(キューティ)を休刊すると発表した。宝島は8月25日発売の10月号で、CUTiEは8月11日発売の9月号で休刊する。「定期雑誌という形は一度役割を終える」としている。


 宝島は1974年の創刊。「タブーに斬り込む知的探求マガジン」というキャッチコピーで、アングラ情報などを独自の編集で提供してきた。CUTiEは1989年に創刊され、女性のストリートファッションブームの火付け役となった。それぞれ、発行部数は明らかにしていない。

 同社は「両誌とも新しい価値観を提供し、一時代を築いてきたが、定期雑誌という形は一度役割を終え、別の形で新しいコンテンツや事業として生かす」としており、今後は両誌のブランドを生かし、ムックの発行や、企業・自治体とのグッズ共同開発などを行うとしている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150730-00000066-zdn_n-sci

1974年、41年前というと、俺が知的な意味で物心がつき始めた頃、俺の思春期に創刊されたことになる。でも、『宝島』っていう雑誌は、その時期によって、それぞれ全く違う雑誌といってもいい。だから、上の記事の「「タブーに斬り込む知的探求マガジン」というキャッチコピーで、アングラ情報などを独自の編集で提供してきた」という文は、強引だろうと思う反面、けっこう巧いまとめだと思わないでもない。
『宝島』という雑誌には(上の記事には書かれていない)前史があり、1973年に晶文社から『ワンダーランド』として創刊され、途中で誌名が『宝島』に変更される。一旦休刊するが、版権をJICC出版局(現在の宝島社)が買収し、1974年に復活。これが上の記事で謂うところの「 宝島は1974年の創刊」ということである。晶文社時代に編集に関わった人としては、植草甚一*3を筆頭に、津野海太郎片岡義男*4高平哲郎などがいる。1976年くらいまでの『宝島』で特徴的だったのはサイズ。普通の雑誌よりかなり小さい新書判。これはかなり目立った。1970年代の『宝島』は米国の対抗文化を指向していた。ドラッグ(大麻)やエコロジカルなライフ・スタイルやスピリチュアリティ(精神世界)。音楽でいうと、やはりフォーク・ロックだろうか。『ポパイ』がメジャーでコマーシャルな米国を指向していたとするなら、『宝島』はより対抗文化的な米国を指向していた。まあ、70年代の(現在で謂うところの)〈サブカル少年〉は(雑誌でいえば)『宝島』と『ビックリハウス』と『ロッキング・オン』の間をうろちょろしていたといえる。ちょっと政治的指向が強かった子は『話の特集』の方へ行ったりもしたけれど。ただ、当時『宝島』はあまり買わなかったな。『宝島』は相対的に高かったのだ。さて、1980年代になると、『宝島』は頁数が若干少なくなって、値段が半分近くになる。それとともに、音楽やファッションでは英国(倫敦)のパンク(ニュー・ウェイヴ)を指向するようになる。日本のバンドでプッシュされたのはRCサクセションYMO。さらに、(現在で謂うところの)〈総合サブカル雑誌〉としての色彩も強めていく。中森明夫*5中島らもも80年代の『宝島』で知ったという人は少なくないのでは? 俺が印象深かったのは漫画雑誌としての側面で、いしかわじゅん*6ひさうちみちお根本敬、或いは原律子といったメジャーではなかった作家の漫画はみな『宝島』で読めた。1970年代の『宝島』と80年代の『宝島』を架橋する存在として、例えば山崎浩一といった人がいた。1980年代の後半になると、読者の年齢層をさらに低めに想定するような傾向が出て来たので、『宝島』を買うことはなくなった。1990年代に入ると、エロ雑誌化するが、同じ年齢層をターゲットにしていたであろう『SPA!』と比べてもいけてないというかどんくさい感じがして、さらに『宝島』からは遠ざかっていったのだった。因みにこの〈エロ本〉期の『宝島』を立ち読みしていて、勝谷誠彦*7のコラムを初めて知り、この右巻きの馬鹿は誰だよと思ったものだった。さらにその後は、『宝島』は風の便りに聞く存在になっていった。ビジネス誌になったとか。それで、百田尚樹への筆誅*8が最後の華となったわけね。