「孔雀」、「しおれた献花」など

未見坂 (新潮文庫)

未見坂 (新潮文庫)

堀江敏幸『未見坂』*1所収の短編から少し抜き書き。
「なつめ球」から;


頬にひんやりした空気のかたまりが触れたような気がして、少年は目を覚ました。
なかば眠りに身体を浸している状態だから、四肢がしびれて動かないうえにまぶたが重く、ぼうっとしただいだい色の光がまつげの先にひっかかってさらに像を不鮮明にする。そのうちほんのすこしだけ視界が開けてきたので、あらためて目を凝らしてみると、孔雀の羽の文様が放射状に宙に浮いていた。ああ孔雀だ、おおきく羽をひろげた孔雀、無数の目だ、と少年は思った。でも、それにしては黒い楕円のならびが不揃いだし、ところどころ、縦横に走っているあの直線はなんだろう。
空気のかたまりはいま、頬のほてりで溶け出し、細い流れになって鼻腔の奥まで入り込んでいた。それが気管を伝って、さらに肺の隅々まで行きわたるのが、ひとつの救いのように感じられる。やや意識が戻ったところで、少年は、自分の身体を包んでいるのがいつもの毛布ではなく、箪笥のなかから久しぶりに引っ張り出したシャツみたいな、あるいは陰干しに失敗した洗濯物みたいな、どこかかびくさい布団であることに気づいた。目が開き、四肢のしびれが取れるにしたがってその布団が重みを増し、せっかくさわやかになった肺をじめっと押しつけてくる。
ここは、どこなのだろう。どうしていつものベッドに寝ていないんだろう。左に目をずらすと、孔雀の目を浮き立たせていた光の源は、四角いあんどん型の電灯の、小型電球であることがわかった。ぼくの部屋にこんな電灯はないはずなのに。そうか、ここはおばあちゃんの家なんだ、と少年はようやく理解する。ぽつぽつと散っている黒の目は、天井の板の節だったのだ。ところどころ楕円が刳りぬかれて穴になっており、そこから鼠かなにか、不気味な生きものの眼が光っているような気配である。なんだか怖くなって、少年はまた、薄ぼんやりした明かりのほうに視線を投げた。(pp.67-68)
子どもの頃、寝付く前或いは目覚めたときに、寝ていた部屋の天井板の節や木目を見上げて、そのかたちに魅入ったり、不気味さに怯えたりということは屡々だった。この「少年」のように天井板の節から「孔雀の目」を連想したことは(多分)なかったと思う*2
「消毒液」から。

(前略)潤の親父さんは、いつも奥の三畳間でラジオを聞きながら酒を飲んでいた。家にいないときは、たいてい駅前のパチンコ屋で「仕事中」だという話だったし、母親は近所のスーパーにパートに出て留守にしていることが多かった。手当て*3をもらう権利を奪われないよう、その日その日の、記録に残らない現金払いのアルバイトをやっているという、真偽のはっきりしない噂があった。
奥の間に潤の親父さんがいるのを、仲間はみな知っていた。野球ができない雨の日などは、外が真っ暗になるまでくだらない話をしながらゲームに興じているのだが、なにかの拍子にしんとなったところへ急にふすまが開いて、親父さんがのそのそ出てきたりした。台所へ水を飲みに行くのである。台所へは奥の間からいったん今に出なければならず、悪童どもはいやでもそこで彼の赤ら顔を拝むことになる。恐ろしいとか乱暴だとか、そんな印象はすこしもなかった。疲れて髪をぼさぼさにした中年男が水飲み場へむかう大型動物の雰囲気であらわれて、どうだ、おまえら、来てるか、来たか、また来るか、よし、ゆっくりしていけ、とつぶやくように言うだけである。親父さんの通ったあとには、酒と煙草のにおいが流れてくる。直後の手洗いを借りると、酒を飲んだ大人のひと特有の、しおれた献花みたいな、甘酸っぱいにおいが充満していた。(pp.189-190)
「しおれた献花」の匂いって「甘酸っぱい」ものだったかどうか。
「潤の親父さん」が昼間から「奥の三畳間でラジオを聞きながら酒を飲んで」いる背景。「潤の親父さん」は「二代続きの八百屋」だった(p.187)。

(前略)ある日、原付で配達にでかけて、信号のない四つ辻で車と接触事故を起こした。運転していたのは市の広報担当者で、その車も複数の課が使いまわしている公用車だったことが、彼のその後の人生にある意味で凶と出、ある意味では吉と出た。非がどちらにあったのかは、双方の言い分がちがうので判然としない。市側は一旦停車して左右を確認したにもかかわらず、その後にいきなり相手が飛び出してきたのだと主張し、潤の親父さんは自分が速度をゆるめて右左を確認しているところへ車が突っ込んできたのだと譲らなかった。どちらにも大きな怪我はなかった。
いや、なかったはずだった。警察を呼び、調書をとって別れたところまでは常識的な展開だったのだが、翌日、潤の親父さんは、だれかの入れ知恵だったのだろう、右の足首を包帯でぐるぐる巻きにし、松葉杖姿で市役所に乗り込むと、事故を起こした相手に上司を呼んでくれと迫ったのである。そして、不始末を表に出したくない役所の弱みにつけ込み、示談金のみか市営住宅に入るための便宜やら生活保護やらを順次取り付けて、市からの援助金で暮らせると判断したとたん、先代が大切にしてきた家業をあっさりたたんで働かなくなってしまった。靖子さん*4がまだ七つか八つ、将来のことを考えればこの時点で仕事をやめるなんて発想はありえないとだれもが不審がった。つまり、よほど金をふんだくったにちがいない、と推察したわけである。
どこからどこまでが真実なのか怪しいという声があったけれど、後づけで整理された話どおり、一課はその後、ひとりでいたいという老いた母親だけ残して店裏の住居よりも広い平屋の市営住宅に移り、そればかりか毎年のように不服を申し立てては、屋根をなおさせ、床を張り替えさせ、網戸を新調させた。隣近所には市から特別な許可を得て自費で修理したのだと胸を張っていたのだが、なぜ挽田さんのところだけ優遇して自分たちにはなにもしてくれないのかと、住人たちがあつまって市に直訴したこともある。むろん、なんど申し立てても、市側からは常識的に考えてそういうことはありえません、自費でやるからどうしてもとおっしゃったんですとの説明がなされるばかりで埒が明かず、結局はうやむやにされてしまった。(pp.187-189)
そういえば、この短篇集にはインターネットというのは全く登場しないのだった。まあ「潤の親父さん」も今のご時世なら、「ナマポ」叩き*5というか、大炎上を引き起こしてしまうだろう。国会議員のちぇんちぇーも登場するかも。

さて、中村文則『悪意の手記』を一気に読了。読み終わって、気になったのは「祥子」という女性のことである。〈悪〉と寄り添いつつ〈悪〉とは無縁である彼女。その存在は奇跡だと言うこともできるだろうけど、都合良すぎるぜ! と反発したり、白けてしまう読者もいるかも知れない。「私」と「武彦」という2人の〈悪人〉がぎりぎりのところで〈悪〉から距離を取り得たこと、さらには〈善〉へ接近しようとしたことは「祥子」の存在なしには考えられない。

悪意の手記 (新潮文庫)

悪意の手記 (新潮文庫)