「うまれてはじめての記憶」(朝吹真理子)

朝吹真理子「記憶は個人の内側から離れる」『毎日新聞』2012年8月6日夕刊


「うまれてはじめての記憶」−−


私は、おもちゃの散乱する居間に直立し、ホームビデオをまわす家族にむかって、規則正しい発音で名前と年齢を言う。「あさぶきまりこです。2さいと5かげつです」。言い終えると、地べたに坐り、ぬいぐるみを触ったり、破れた飛びだす絵本を粗雑にあけしめしてみせる。これが最初の記憶であるらしいのだが、それは、はきはきと答える私のすがたをみている記憶でもあって、ビデオを回している瞬間の記憶というより、映像を家族で鑑賞しているときの幼い自分の視線の記憶であるらしい。しかし、記憶は、思い出すたびごとに、順序も、細部も、少しずつちがっている。
また、

人間の記憶は、ボーリングコアとは違って、きれいな層をなして堆積しない。なにかの弾みで、思い起こされるという体で顕れるだけで、それは、水面にうつる景色をのぞきこむのと同じで、みるたびに、記憶は新しいはじめてみるものになる。思い出は、過去に遡ることではなく、現実の半歩先、未来からさしこむ光のようなものとしてやってくる。(後略)
See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120224/1330041925 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120225/1330174519 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120515/1337106717 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120518/1337267927


ところで、『毎日』の同じ日の夕刊に、鈴木哲夫「小沢一郎は終わっていない」という文章が掲載されている。