「終わりなき日常」だった

承前*1

小田実谷崎潤一郎の『細雪』の主人公たちは「生まれてきたときから現在までの間に、根本的な変革はな」く、「過去というものは、現在の延長としてみており、未来は現在を拡大した形で見ている」と述べていたことをメモした(「革命を語る」、p.19)。これって、この数十年後に宮台真司が言った「終わりなき日常」*2と同じなのかなと思った。それにつられてか、積んであった宮台真司藤井良樹中森明夫『新世紀のリアル』(飛鳥新社、1997)を一気読みしてしまった。1990年代の宮台真司というのは(良きにつけ悪しきにつけ)迫力があったということはいえる。

何でも語ろう (1982年)

何でも語ろう (1982年)

細雪 (上) (新潮文庫)

細雪 (上) (新潮文庫)

細雪 (中) (新潮文庫)

細雪 (中) (新潮文庫)

細雪 (下) (新潮文庫)

細雪 (下) (新潮文庫)

新世紀のリアル (ライターズ・デン・ブックス)

新世紀のリアル (ライターズ・デン・ブックス)

小田実『何でも語ろう』から再度メモ。「主義を語る」(1979年6月。菊地昌典、栗原幸夫、武藤一羊が出席)での小田実の発言;

ぼくが社会主義にあまり魅力ないのは、みんな一つしかないからだね。党は一つやろ、新聞も一つ、その新聞も党やろ。銀行も一つ、みんな一つやろ。なんも出来なくなるね、にらまれたら。資本主義社会というのは、前提として人間は悪いことをするというものの上にある。社会主義社会は人間は神様であるという前提に立っとるよ。あるいは神様になるもんであると。たとえば党が一つであっても官僚化しないと、この人は立派な人であるからしないというのがあるね。それから新聞でもちゃんとした、民衆のためになることを書く。そういうことを決めてある。ところがそういうふうにはなっとらんわけよ。資本主義で言えば、そういうものはやたらとあるわけだ。つまり権力で駄目なら金の力で行けという田中角栄みたいな小学校しか出てへん奴でも出世したりしてね。こういうことがいくらでも出来るようになっとるわけだ。金がなければ、ビラをまくとか、デモ行進をするとか、いろいろあるわけだ。それも抑圧されれば話は別だけど。長崎が駄目なら江戸で行けというように民衆は動けるわけよ。あっちが駄目ならこっち、押して駄目なら引いてみようという余地があるわな。それが社会主義社会では一切ゼロでさ。なんかやれば人民の敵と規定されて、これはしんどいよね。そいう気がする。(pp.289-290)