清朝へのルサンティマン(北と南)

季進、王吉「説唱文学與文学生産――哈佛大学伊維徳教授訪談録」『書城』2012年2月号、pp.45-55


和蘭人中国文学者Wilt Lukas Idema(伊維徳)*1へのインタヴュー。
Wilt L. Idema, Wai-yee Li, Ellen Widmer(eds.) Trauma and Transcendence in Early Qing Literature*2を巡る質問に対して。何故清朝に対する抵抗が長江の北と南で違ったのか;


我們当時是這様想的、夷人(満清)把中国文化破壊了、対於中国文明、特別是対江南地区的文明来説是一個trauma、是世紀末一様的大災難。中国在一六二〇年前後、一直有農民起義、包括河南、河北、山西、山東在内、長江以北地区、遭到的破壊都很厳重。不僅如此、北方很多地区還受到了満洲人的侵略、這種動乱的局面長達二十多年、李自成推翻明朝、満洲人入関将其褰走並定都北京之後、政局才大致穏定下来。対北方人来説、経歴了二十余年的動乱、他們其実希望有一股強大的勢力重掌政権、因此、対満洲人並不十分排斥。而江南地区不同、直到一六四〇年、都没有受到起義的直接衝撃、生活相対穏定。那麽、当満洲軍隊忽然打到南方、包括之後的”揚州十日”、”嘉定三屠”等等、這対当地人心理上的衝撃就非常大了。他們的世界完全崩壊了。権威中心的淪喪、社会秩序的失控、譲很多遺民不知所措、這対他們来説是一個非常大的”trauma”。(p.55)

従一六四〇年到一六七〇年、明朝滅亡了、当然、還有南明的小朝廷、甚至有鄭成功在海峡対岸建立的政権。但事実上、他們的精神世界已経失去了中心。要求他們像夷人一様生活、在一定程度上顛覆了既有的文化伝統、這対他們来説一個很大的trauma。可是幾十年後、到了第二代、明朝的遺民越来越少、他們的後代、漸漸承認了満洲皇帝就是中国的皇帝、因為満洲統治者也懂得尊重文化、提唱朱熹的道学。特別是開設博学鴻詞科、恢復科挙考試以後、中国文人也漸漸承認了新的統治者。他們知道満洲人是夷人、是外族、但是他們不再特別強調這一点了。(ibid.)
江南人の清朝に対するリアクションに関しては、楊念群『何処是“江南”? 清朝正統観的確立與士林精神世界的変異』*3をマークしておく。中国の「北」と「南」に関しては、竹内実『中国という世界』第6章「南と北」。ここで竹内氏は主に桑原隲蔵「歴史上より観たる南北支那」に依拠している。また「わたしはながいこと、長江によって南と北が分かたれると誤解していたが、中国の南北の境界は長江より北方の淮河と漢江あたりである」と述べられている(p.120)。さて? なお清朝に対するリアクションにおける南北の差異は1949年以降における共産党に対するリアクションの「華北」と「華南」の差異として反復されているように思えるが(Cf. eg. デニス・チョン『チャイナタウンの女』、p.263ff.)、如何?
中国という世界―人・風土・近代 (岩波新書)

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チャイナタウンの女 (文春文庫)

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