「監獄改革」のベンサム(メモ)

承前*1

重森臣広「イギリス自由主義の変容――自助・共助・公助をめぐるせめぎあいから」『未来』543、2011、pp.33-41


上掲の重森氏のテクストでは、先ず「自由主義の変容」以前の人物としてジェレミーベンサムが論じられ、その後、「変容」以後の人物としてアーノルド・トインビーとウィリアム・ベヴァリッジが論じられている。
ベンサムというと「パノプティコン」という名詞が反射的に連合されてしまうのだが*2、「パノプティコン」(監視のための新技術)のほかにベンサムの「監獄改革」はどのような特徴を持っていたのか。


昨今の表現でいえば、ベンサムは政策起業家のようなところがある。議会改革や監獄改革、中等教育の刷新から、国教会の組織的パフォーマンスの評価まで試みている。「改革狂」とさえ言いたくなる。(p.34)

ベンサムが手をかけた改革の分野は多彩であるが、それらの改革プランには共通点がある。監獄にしろ、学校にしろ、教会にしろ、彼が改革プランの俎上にのせたものは、どれも社会的性格の強いものばかりであるが、それらをコントロールするのは営利、マネジメント、そして公論だと考えられていた。たとえば、有名な『パノプティコン』であるが、これは一八世紀末イギリスの監獄改革をめぐる議論の沸騰を背景に書かれている。ジョン・ハワードの『十八世紀ヨーロッパ監獄事情』(岩波書店)のリポートにも示唆されている通り、その後の監獄改革論はどちらかというと請負制監獄に終止符をうち、大陸ヨーロッパ諸国のような公営化に接近する方向で争点化していくことになるが、ベンサムのプランはこうした趨勢に同調せず、むしろ請負制の合理化を提唱する。なぜ公営化への接近が問題なのか。それは「経営管理にあたるものが一人であれ、複数であれ、経営者は成功に何ら関心をもたない」からであり、「利益が生じても何も得るものがなく、損失が発生しても何も失わない」からである。むしろ「利益と責務」が表裏の関係にある仕組みを導入しなければならない。「労働によって何も得るところがないのであれば、怠惰でいること、働かないことがその利益にかなうことになる」からである。
(略)ここからベンサムは望ましい監獄制度を支える原則として、第一に経営情報の「公開」、第二に受刑者の「虐待防止」、第三に「監察制度」をあげる。興味深いのは、監獄は「安全な拘置」装置であると同時に、受刑者の労働が生産的であり、かつ請負業者の収益に結びつくよう組織化されているとこと、しかし、その労働が苛酷になり受刑者の安全と矛盾することのない水準に保たれるようなインセンティブが仕込まれている点である。ここでも「利益と責任が表裏の関係におかれる」とする原則が貫かれる(受刑者の虐待が経営者の金銭的損失に連鎖するルールの導入)。加えて、「監察制度」も興味深い。これは要するに監獄の開放である。「この種の施設の門戸は……特別な理由がないかぎり、好奇心をもつ人々の集団――世間の法廷という大きな開かれた委員会――に開放される」というのである。(pp.34-35)
十八世紀ヨーロッパ監獄事情 (岩波文庫)

十八世紀ヨーロッパ監獄事情 (岩波文庫)

重森氏の評価;

(前略)監獄の維持・管理と受刑者の処遇は、きわめて社会性、公共性の高い問題領域である。(略)ベンサムは、だから「公」が直接的に関与すべきだとは考えなかった。厳密な意味で「自発的」といえるかどうかは難しいが、一方で彼は、民間の請負業者のインセンティブを創出するためのルールを考案することで、他方で「好奇心をもつ人々の集団」という、今日ではいささか奇異な感じのする表現を使って、ステークホルダーではない人々の見聞・聴聞がもつ暗黙の圧力を利用することによって、「利益と責任」の表裏一体化を実現しようとしている。(略)ともかく非政府セクターのある種の「自発性」の発揮が期待されているわけである。「マネジメント」の語が多用されていることからも想像がつくように、ベンサムの着想は営利性を基軸に展開されている。だから、市場原理主義などと呼ばれる潮流とむしろ親和性があるのかもしれない。しかし、それでも、ここで着目したいのは、監獄内の無秩序、不衛生、囚人たちにたいする非人間的な処遇といった、社会的関心事の解決法の探求がまず念頭にあって、「マネジメント」の技術はそのためのアイディアだった点である。彼は社会的課題の解決を社会自身に委ねたとみることができる。(pp.35-36)
ベンサムと所謂「市場原理主義」者との微妙ではあるが決定的であるかも知れない違いは「救貧法」問題に対する彼のスタンスに示されているかも知れない(Cf. p.36ff.)。
For Bentham see also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110610/1307724330