乃木書簡

『読売』の記事;


息子2人戦死、面目保てた…乃木大将の手紙発見

 日露戦争(1904〜05)で中国・旅順を攻略した陸軍大将、乃木希典(まれすけ)(1849〜1912)の手紙が見つかり、入手した広島市の学校法人修道学園が8日発表した。

 自刃する2年前、かつての部下に宛て、日露戦争で約6万人の死傷者を出すなど多大な犠牲を強いた責任を感じ、「弊家(へいけ)ハ小生共(しょうせいとも)一代(いちだい)」と乃木家を断絶させる決意をつづっている。

 手紙は1910年7月6日の消印。陸軍時代の部下で、同学園の前身の修道中学校総理(理事長)だった佐藤正に宛てた。乃木も後に学習院院長となり、同じ教育者として交流を深めたという。

 手紙では、広島の特産品をもらった礼をつづった後、戦争で跡継ぎの2人の息子を亡くした乃木に養子縁組を勧める佐藤に対し、「小生共一代」と跡継ぎのための養子は考えていないと記した。また、天皇陛下や戦死した将兵の遺族に対し「申譯(もうしわけ)ナク」と謝罪し、息子2人の戦死は「愚父ノ面目ヲ添ヘタル」と、かえって面目を保てたとしている。
(2012年2月8日15時31分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20120208-OYT1T00678.htm

今年は明治時代が終了し・乃木希典夫妻が切腹して100年目だったのだ。俺が子どもの頃は〈明治100年〉といっていたのだが、今は既に〈大正100年〉か。
息子の戦死についての感想は〈司令官の責任〉としてそう言わざるを得なかったというところもあるか。ただ乃木将軍の死後、その屋敷の隣地が「乃木神社」になり*1、乃木坂として東京の地名に刻まれ、〈軍神〉としての神格化が進んだことによって、後の皇軍兵士やその家族に対する〈死ね死ね圧力〉の原型になったことは想像に難くない。
戦後乃木希典の脱神話化を行ったのは司馬遼太郎だろうか。司馬のおかげで、乃木=無能軍人というイメージはかなり定着しているといえる*2。かくいう私も、旅順要塞ならぬ福島原発に「決死隊」を投入せよと某大物政治家が呟いたというのを聴いたときに、日露戦争乃木希典を思い出したりした。ところで司馬遼太郎思想において、乃木希典というのは(輝かしき)明治と(悲惨な)昭和を繋ぐ存在、明治に芽生えた昭和の予兆ということになるのだろうか。明治と昭和を繋ぐ存在ということだと、「学習院院長」として後の昭和天皇を教育したということが重要だろう。色川大吉氏は、昭和天皇が子ども時代に乃木希典のような「愛国者」しか知らず内村鑑三柳田國男のような別のタイプの「愛国者」を知らなかったことが問題だと、(たしか)述べていたが、例によってその出典は忘れてしまった。
西南の役で西郷軍に軍旗を奪われてしまって以来のメランコリックな自殺念慮といったパーソナルな面から〈軍神〉を初めとする〈社会的構築物〉としての「乃木希典」という側面まで、綜合的に記述した伝記として、大濱徹也『乃木希典』があるが、福田和也が乃木伝を書いていたことは知らなかった。
乃木希典 (河出文庫)

乃木希典 (河出文庫)