佐和隆光『尊厳なき大国』からのメモ

尊厳なき大国

尊厳なき大国

佐和隆光『尊厳なき大国』(講談社、1992)を読む。
1992年2月に刊行された本書は1980年代後半からのバブル経済及びバブルの崩壊に対する応答であったといえる。また、当時日本の論壇を賑わせていた〈日本的経営〉或いは日本型の資本主義を礼賛する内外の言説*1を批判し、1987年頃から米国を中心に活性化した日本バッシングの言説に寧ろ同情的なスタンスに立っている。


(前略)わたし自身はリベラルなケインズ主義の立場にたち、市場経済を万能視する新古典派にはくみしていない。しかしながら、いまの日本に残存するプレモダンな制度・慣行のかずかずをみると、ものごとの順序として、新古典派の経済学が教える自由で透明な市場とはなんなのかを国民の一人一人が的確に理解する必要を、市場の失敗や市場の暴力についてうんぬんする前に、声を大にして強調しておかねばならないと考えている。なぜなら、不透明かつ不公正な日本型市場は、市場の失敗や暴力のもたらす害悪よりも、はるかに深刻な外部不経済を他者におよぼし、かつまた消費者に不利益を押しつけているからである。(p.181)
因みに、「市場万能主義者」に対する批判は、

(前略)現実の市場経済がいかなる摩擦をともなうことなく、インフレや失業といった経済の病いを、たちどころに解決してくれるかのような錯覚におちいる。これが、市場万能主義者の通弊にほかならない。八〇年代には、イギリスのサッチャリズムアメリカのレーガノミックス、そして日本のナカソノミックス(=中曽根首相の経済政策)という、市場万能主義が席巻をきわめた。しかし、市場万能主義に根ざす経済運営は、いずれの国においても、いまやそれなりの破綻をきたしたといわざるをえない。(略)
具体的にいうと、現実の市場は多かれ少なかれ不完全であり、現実の市場機構による調整には摩擦がともなうことや、消費者や企業が市場にかんするあらゆる情報を知りつくしているわけではないことを、意図的かいなかはともかくとして、かれらはみすごしていた。さらにまた、市場機構は、分配の不平等を解消する力をいささかももちあわせていないことを、みすごしてもいたのである。またそのうえ、くりかえしていうが、市場経済の「効率性」とは、「もしあなたの福利を向上させようとすれば、必ず他人の福利を低下させる」という、消極的な意味しかもたないのである。(p.115)
また因みに、佐和氏は自称「やや左」*2

(前略)初等中等教育のレベルを下げ、知識のつめ込みは大学にゆだねることにしてほしい。こうして生じた時間的ゆとりを、博物館、美術館、自然の鑑賞、あるいは倫理の教育に割くべきである。知識のつめ込みは大学に入学してからでも、遅きに失するわけではない。ところが、美術を鑑賞する審美眼を養ったり、自然に親しんだり、ディベートのマナーを修得したりするのは、二〇歳近くの大人になった大学生にとっては、ほとんど無理難題のたぐいだと心得るべきなのである。(pp.191-192)
左右から結局叩かれた「ゆとり教育*3だが、それを支持した人の少なくない部分はこのような〈理想主義〉的理由を持っていたということは記憶される必要があるだろう。