ぎんぎらぎんにさりげなく?

「生涯所得を数千万円変える“本当の”情報格差/若者よ書を求め街へ出よ?」http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110813/1313239682


たしかに中国語には〈書香世家〉というそのものずばりな熟語があるな。
また、例えば幼少時の絵本の読み聞かせというのは文化資本を測定するための指標としても用いられており、それと子どもの学力との相関関係も出されている。それから、親の読書頻度や家の蔵書と子どもの学力との相関関係を指摘した調査もある*1。ただ、こういうタイトルのエントリーを書くこと自体が既に負けなんじゃないかという気もする。〈書香世家〉の子どもは「「本には面白いことが書いてある!」とすり込まれ」て、本を読むようになるわけではないだろう。彼ら/彼女らが習得するのは本を読むということが別に特別なことではなく飯を食ったり・風呂に入ったり・お茶を飲んだりするのと同じように日常生活の一齣にすぎないということなのだ。さりげなさこそが重要なわけだ。逆に、我が子を「情報弱者」にしないためにも本を読ませるぞと鼻息を荒くしたり目を血走らせている親は、その真剣さ故に最初から敗北しているともいえるんじゃないだろうか。
さて、家庭環境(家系)の差と地域環境の差とどっちが深刻かという問題;


「家系格差とか言う前に地域格差のほうがヤバいって」http://d.hatena.ne.jp/potato_gnocchi/20110814


どちらも重要だというしかないのだけれど、「常夏島」さんの書き方はちょっと説得力を欠くところがある。「父の本棚を小学校の頃眺め見た私は、そこに「ワニブックス」とか「ゴマ書房」とかのどうでもいいハウツー本と、軽い文庫と分かり易すぎる新書しかないことを知りました」。これは小学生である「常夏島」さんの主観ではなくて、既に大人になった「常夏島」さんの主観だろう。何しろ小学生に「ワニブックス」と岩波新書の違いはわからないのだから。親父ってかなりアレな本しか読んでいなかったよねと感嘆しているのは、小学生ではなく大人の「常夏島」さんなのだ。上の私の論からすれば、何を読んでいたかというコンテンツよりもどのように読まれていたかということ、読書が日常生活に溶け込んでいたかどうかということの方が重要だった。もしかして、「常夏島」さんが読書欲に目覚めて小学校の図書室に入り浸ったのは、日常的に(「ワニブックス」であっても)本を読んでいる親の姿を見て、それを真似しようとしたからだと解釈できないだろうか。「ワニブックスでさえも読まない親の子どもは図書室に足を運ぼうともしなかったかも知れないのだ。
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ちなみに電車内でPSPよりも文庫本を取り出す程度には、みんな読書好き。読書量の差はかなり密接に所得格差に繋がっているみたいだ。ひがみっぽい感情を必死でこらえて、それぞれの祖父・曾祖父の職業を尋ねてみた。

その結果、国鉄(現JR)、電電公社(現NTT)、郵便局局長(現ゆうちょ)……などの答えが返ってきた。これを見て、気付くことはないだろうか。そう、すべてが民営化されている――のはそうなんですけど、そこじゃないです。戦前にこれらの職場で働く人たちがどういう立場だったかを考えてみてください。


そう、いわゆるテクノクラート! 知識階級なのだ!


日本全国のどんな場所に赴任しても、彼らの知識階級としての立場は変わらない。戦争で一家離散の憂き目にあったり、没落したり、どの家系も激動の運命をたどった。しかし、「読書をする家庭環境」だけは残った。「読書よりも野良仕事」なんて価値観はそもそも介在しない家系だったのだ。それが孫・曾孫にまで伝わり、彼らを読書好きにし、賢くし、高給取りの道へと歩ませたのである。

私の父親は国鉄労働者で、母親も結婚するまでは電電に勤めていた。でも子どもの頃、家に本は殆どなかったよ。母方の祖父は華道の師匠だったので、「知識階級」だったといえるのかどうかわからないけれど、家にあまり本がなかったということには変わりがない。さらに、最近も記したのだけど、両親だけでなく親戚にも大学に行ったという人が殆どいなかったので、小学校時代の私は将来大学に行くということも具体的に想像できなかったのだ*2。つまり、私は大学に行くということに関して、さりげなく振舞うということができるような家庭環境を有してはいなかったということなのだ。多分、読書に関してもそうだろう。また、絵本の読み聞かせを受けたという記憶もなく*3、自分が親に読み聞かせてもらった絵本を自分の子どもにも読み聞かせるというような話を聞いても〈異文化〉の話としてしか感じられなかった*4。子どもが産まれることになっても、どんな絵本を与えたいか咄嗟に思いつかない。妻も文化大革命中に生まれたので、〈絵本〉を知らない。ということで、先ず親が絵本を楽しむことから始めようということで、妻に読み聞かせをしたりしているというのが現状なのだった。
ここで採り上げた2本のエントリーは或る種の〈貧困〉が読書というハビトゥスの取得を阻害するという話だったけれど、この阻害にはまた別の要因がある。台湾では受験制度のプレッシャーから、親が子どもに学校の授業や入試に直接関係しない読書を禁止する傾向があるという(余雯婷、房慧真「張鉄志:閲読是一個人対世界的好奇心」『MING』2011年8月号、p.177)。勿論台湾だけの問題だけでなく、韓国、大学進学が大衆化しつつある1990年代以降の中国大陸にもそういう問題はあるのだろう。また日本にもあるのかな。読書する息子や娘に対して、「「邪魔だ」「この根暗め」「無駄遣いしやがって」と罵倒」するのは農民ではなく教育熱心な中流階級の親だという可能性もあるのだ。〈貧困〉による阻害よりもこっちの方が、無教養なエリートの生産に繋がるという意味で(社会にとっては)より深刻なのかも知れない。