「フィクションの人」(片岡義男)

片岡義男*1「フィクションの人になりたい」『図書』(岩波書店)747、pp.54-57、2011


なかなか興味深かった。


自宅でデスクに向かい、ひとり小説の原稿を書いている僕という人は、現実の日常を生きているこの生き身の僕だが、そこには同時にもうひとりの僕がいる。フィクションとしての僕、という言いかたしか出来ないような種類ないしは性質の僕がいて、小説を書いているのはじつはそちらのほうの僕だ。
(略)現実のなかに生きていて、そのごく小さな一部分である生き身の僕、という直接性のままに僕が小説を書くことはあり得ない、ということをまず言いたい。今度はぜひこれを書きたい、という願望が生き身の僕のなかに沸き上がり、それを主人公に託して物語に仕立てて、自分の言葉という直接の言葉で書いて小説と称する、ということは少なくとも僕の場合、あり得ない。(略)多くの、あるいはほとんどの、さらにはすべての作家に、このことは大前提として当てはまるはずだ、と僕は考える。
今度はこれを書きたい、と思う営みのなかにむき出しに存在する直接性と対をなすのは、書きたいと願うことを書いていくために使う、おなじくむき出しになったままの自分の言葉という、直接性だ。直接性とは自分の願望であり、つまり自分のことであり、最終的には自分の言葉だ。自分の書きたいことを自分の言葉で巧みに物語にすればそれが小説だ、という理解が一般的にあるとしたら、それはまるで違う(後略)
(略)直接性の反対は間接性だろう。(略)生き身の自分が持つ直接の願望など、小説を書くにあたってはいっさいどうでもいい、というのが僕の考えかただ。その反対に、どうでもよくないのは、つまりもっとも重要なのは、フィクションへの願望だ(後略)
フィクションとは、小説とは、それを書いていく言葉における、間接性の確保のことだ。これを書きたい、という願望がどれほど強くても、そしてそれを書きあらわす言葉が構成や文章においていかに巧みでも、フィクション作品になるほどの間接性を獲得していないかぎり、書かれたものは個人的な作文や手記の範囲内にとどまる。(後略)(pp.54-55)

直接にせよ間接にせよ、なんらかのかたちで体験したことが記憶の内部に溜め込まれ、思いがけないものどうしが結びついて小説へのきっかけや材料の一部分になることは確かだが、では経験だけが小説の材料なのかというと、まるでそうではない。体験とは直接性だとすると、間接性とは体験していないことすべてではないか。体験したこと、そして体験していないことが、記憶のなかでひとつになり、無意識の世界を作り、書き手はそのなかからフィクションをすくい上げる。記憶とは過去だとすると、過去のぜんたい的な作り直しが、フィクションというものだ。
記憶という過去を整理し、再構成し、作り直し、さらにはまったくあらたに創作して、そこから小説を組み立てる。自分が書きたいと思うことを、自分だけの直接性そのもののような言葉で書いていく営みからもっとも遠いところに位置するのが、じつはフィクションだ。
(略)自分だけの言葉には直接性のみがあるなら、間接性を確保するには、自分以外のさまざまな他者の言葉を取り込み、そのような言葉で書けばいい、ということになる。記憶という過去を作り直す作業は、自分の言葉だけという直接性を可能なかぎり抑制し、その代わりに、他者という間接性を、おなじく可能なかぎり、取り込むための作業だ。他者という間接性を可能なかぎり取り込むとは、すべてを他者のこととして書く、ということにほかならない。(p.55)
ところで、「自分だけの言葉」というのはそもそも可能なのか。

他者のこととして書くためには他者を取り込む必要があり、そのためには記憶を創作しなければならない。あるいはその逆に、記憶を創作する作業をとおして他者を取り込み、書き手の言葉は他者性や間接性を獲得する。創作とは記憶の創作のことだから、書くにあたっては記憶を創作しないことには、どうにもならない。創作された記憶は言葉で書くほかない。だから書く、書かないことにはなにも始まらない。(p.56)

フィクションとは、間接性や他者性のことであり、それらゆえの他者との有効な接点としての機能のことだ。そしてそのような機能が発生する源は、記憶を創作すること、つまり書く人自身がフィクションになることのなかにある。(後略)
小説を書くにあたっては、自分などどうでもいい、というのが僕の基本的な方針だ。書いていく現実のなかで生き身の自分は、可能なかぎりしっかりしていなければならないし、書くからには、可能なかぎりきちんと書かなくてはいけない。しかし現実の自分の大事さはここまでであり、そこから先においてはフィクションがすべてに優先する。小説を書くときにはフィクションの人になるとか、書き手そのものがフィクションである、というような言いかたをしてきたが、少しだけ具体的に言うなら、現実の僕のすべてにフィクションが優先する、という言いかたも出来る。
書きたいのは自分のことや自分の気持ち、自分の願望などではない。書きたいのはフィクションだ。そうであるなら、フィクションがすべてに優先するのは、当たり前のことだ。現実の自分の気持ちや願望などは、書こうとしているフィクションとはなんの関係もない、という意味において、現実の僕のすべてはフィクションに奉仕する。書きたいのはフィクションとして成立する話だけであり、それ以外のことはいっさい関係してこない。
いったん書き始めたなら、最初の一行を書いたなら、最後の一行まで、最後の読点まで、書き手である僕はそのフィクションに奉仕する。そのフィクションを書き上げるまでは、そのフィクションのための人、つまりフィクションの人になる。書いていく作業をもっとも強力に助けてくれるのは、書こうとしている物語そのものであり、物語は主人公たちが引き受けて推進させていくのだから、助けてくれるのは主人公たちだということになる。(ibid.)
これ以降のごにょごにょとした語りはあまり面白くない。
これは、要するに、「小説」を語るのは〈著者〉ではなくフィクショナルに構成された〈語り手〉だということだろう*2。話はずれるが、学術論文を書くという場合にも、意識を日常的なモードから理論的態度へと変更し、現実についての自らの〈理論〉以前の考え方・感じ方を停止しなければならないということはある(See eg. ブルデューその他『社会学者のメチエ』)。勿論、それを完全に遂行することは(言語というメディアの本質からいって)不可能であろう。或いは、現象学的還元の最大の成果は現象学的還元の不可能性であるというメルロ=ポンティの洞察(『知覚の現象学』)。
社会学者のメチエ―認識論上の前提条件 (ブルデューライブラリー)

社会学者のメチエ―認識論上の前提条件 (ブルデューライブラリー)

知覚の現象学 1

知覚の現象学 1

それにしても気になるのは、片岡義男における「主人公」中心主義*3

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101117/1289961701

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071203/1196703664

*3:See 「短編小説を書く途中で」『図書』746、pp.54-57