小説/物語など

珠洲環「「小説」は「物語・批評・文体」から構成されている」http://d.hatena.ne.jp/SuzuTamaki/20070729/1185742868


少し以前に書かれたもので、どんな経緯でこのエントリーにアクセスしたのかは忘れてしまった。「小説」とは何かということを理論的に省察したものなのだが、読んでいて、違和感が残った。「小説」とは何かということは、実は(一読者として)私にもわからない。この違和感を媒介に「小説」とは何かということの解像度が上がればいいかなと思った。


「小説は物語・批評・文体の3要素から構成されている」と言ったのはサークルの先輩だった。なるほど、上手いことを言うな、と感じた。

「物語」は言うまでもなく物語である。基本的にこれがなければ小説は成り立たない。
その上で、この珠洲さんは「小説」と「物語」を区別する。小説=「物語」+αだということになる。「物語」とは何か。これは自明のものとされて、定義されていない。ので、幾つか推測してみると、〈筋〉だろうか。或る発端があって、行為と動機の連鎖を経て、ある結末がある。そして、発端から結末に到るまでは、必ずしも論理的な無矛盾性は要求されないが、少なくとも心理的には無矛盾であることが要求される。また、表面的には矛盾に見えるものも、社会学的、歴史的、精神病理学的その他のコードを差し挟むことによって、必ずしも矛盾とはいえなくなる。言い換えれば、簡潔な要約に還元可能であること。果たして、そうだろうか。例えば、以前その断片を引用した堀江敏幸の『いつか王子駅で』という小説*1
いつか王子駅で (新潮文庫)

いつか王子駅で (新潮文庫)

この小説を荒筋に要約しろと言われればできないことはないが、そんなことをしても面白くない、あまり意味がないことは明らかだろう。だって、これは(実は今さっき思いついたのだが)〈外向的なヌーヴォー・ロマン〉なのだ。私たちは日常的に何かを一貫して考えているのではなく、他人とか書物とか場所とか諸々の外部に触発されながら、その都度何かを考えたり、中断したりしている。『いつか王子駅で』が示しているのはまさにこのことなのである*2。だから、この小説は、私たちの生が〈非−物語〉であるように、〈非−物語〉なのである*3。「物語」の存在は「小説」にとって不可欠ではない。

まず「批評」。これは、最初聞いたときどういう意味かわからなかったが、どうやら、作者が作品に対してこめる意図、といったものらしい。「批評的な作品」と作品に対する評価が与えられることもあるが、これはつまり、1人の確かな作家がその小説を意図を持って書いたがゆえに発生する評価だ。作品の意図。それも、個人が所有する意図、となれば、それは小説を含めた個人(あるいは準ずる作家グループ)の作であることが規定された物語にのみに許された要素である。たとえば御伽噺のような自然発生的な作者不在の「物語」には「批評」という要素が含まれない。これがまず第一に「物語」と「小説」とを分ける指標である。
「小説」には「御伽噺」などと違って「作者」が存在するということは誰も異議がないだろう。従って、「作者が作品に対してこめる意図」が存在するであろうということも。しかし、「批評」とは具体的に何なのかというと、「社会的な批評」とか「社会問題や状況、思想などに対する直接的な批評」という言葉が使われている。勿論、「批評」という言葉の意味としてはその通りであろう。しかし、「御伽噺のような自然発生的な作者不在の「物語」には「批評」という要素が含まれない」ということにはならない。柳田國男以来、昔話のコアには教訓があることになっている。これは「作者が作品に対してこめる意図」としての「批評」ではないが、愚行とか不道徳な振る舞いに対する世間の常識による「批評」といえるだろう。「エンタテインメント性のみで作られた物語には「批評」性がない」というが、「エンタテインメント性のみで作られた物語」の典型でもあろう(例えば)浪曲とか時代劇とかは、(通俗的なものかも知れないが)勧善懲悪とか、「批評」=教訓が天こ盛りである。
3番目に挙げられるのは「文体」。珠洲さんは「文体」ということで、「手書きからタイプライターへ、あるいはキーボードへ」という入力技術の変化の問題に持っていこうとする。それはそれで興味深い問題だが、ちょっとさて措く。「文体」に関しては、小学生の作文から大文豪に至るまで、文を書く以上、癖としての「文体」は不可避的に発生してしまう。匿名であっても「文体」によって身元がばれてしまうくらいに。その「文体」に稚拙だとか巧みだとかといった区別も出てくることになる。ただ、「小説」の場合、「文体」は一筋縄ではいかない。「文体」の捏造或いは剽窃というのはそれ自体「小説」の重要なテクニックである。それは、「小説」において直接的に登場するのは作者ではなく語り手であり、登場人物だということによるだろう。作者は自らの(癖としての)「文体」に拘ってはならず、寧ろそれを相対化し、語り手や登場人物に合わせて「文体」を捏造或いは剽窃しなければならない。そうでないと、「小説」の(非現実としての)リアリティが揺らいでしまう。だから、(別の人の論だが)、「春樹をはじめとする純文学で成功した作家のやったことは、我々の基本OSとは別のOS、しかも極めて汎用性の低い独自OSを、読者の脳みその中に刷り込んだことに相当する」という論*4もそれなりに魅力的だが、一定の疑問を付しておく。
さて、
「批評」なしの「小説」。それはすでに例を挙げた通り「自然発生的な口伝物語」のようなものだろう。これらは小説とは呼ばない……と感じはする。「竹取物語」は果たして小説だろうか。一応、「枕草子」は小説と呼べるような気がする。さて。
えーと、『枕草子』は随筆というジャンルに入ることになっているんですが。「小説」と随筆、フィクションとノンフィクションの区別は取り敢えずした方がいいと思う。勿論、あらゆる事実の記述にフィクショナルなものが浸透し、あらゆるフィクションにもある程度事実が入り込んでいるということはあるけれど。例えば、


私はAを殺す(殺した)。


と、私が「小説」の中で書いても、私は何の法的責任も負わない。これは作者(私)の言葉ではなく、「小説」の語り手或いは登場人物としての「私」の言葉である。さらにいえば、「小説」は嘘だということを私たちは了解している。仮令それが私自身(私小説!)や歴史上の実在の人物(歴史小説)をネタにしていても。だから、歴史学のレポートで、斎藤道三について、司馬遼太郎の『国盗り物語』を参考文献として使用することはできない。それに対して、もしエッセイ(随筆)の中で私がこういうことを書いたら、それは大変なことになるだろう。少なくとも警察は黙っちゃいない。それは随筆における「私」はほかならぬそれを書いている私であると見なされているからだ。さらに、ノンフィクションでは、私は書いたものの事実性について責任を負うとされている。「小説」では柳生を大和国ではなく伊賀国にあると書いても許されるが(林不忘丹下左膳』の場合)、随筆を含むノンフィクションではそうはいかない。
「小説」を含むフィクションは、嘘というか、非現実(非事実)を前提としつつ、リアリティ(現実性)を要請されているといえようか。さらに、「小説」と「物語」の違いについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070814/1187057125でつらつらと考えたことからあまり進んではいない。

*1:Cf. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071107/1194459675 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071108/1194514517

*2:この小説については、Arisanによる優れた批判的読解がある(http://d.hatena.ne.jp/Arisan/20070718/p1)。この読解については、後日改めて言及してみたい。

*3:勿論、所謂〈自己物語論〉で論じられているように、私たちは〈非−物語〉である生を自ら物語化しようとする傾向はある。

*4:http://d.hatena.ne.jp/idiotape/20071027/1193471944