エクリチュールにおけるturn-takingの不必要性か。
我々は日常的におこなっている《会話》は一見「自由」に行われているように思えるが、実はそうではない。そこには「暗黙のルール」が存在する――例えば、誰かと会話するとき、相手が自分の好きなこと、喋りたいことだけを延々と喋り続け、一切聞き手に回らないとしたら、たぶんその人には批難が差し向けられるだろう。その場に4人の人が集まってお喋りをしている、とするなら《何かを発話する権利》が4人のなかをバトンがめぐるようにされなければ会話は成立しないのである。もし4人が同時にその権利を所持して話し出したらその場はとても混沌としてしまい会話は成立しない。一方、ブログを《書く》ときそのような煩わしいルールは存在しない―ー何故ならそこにはルールを規定するような他者が存在しないからだ(性格に言えば他者の存在が隠蔽されている)。小説家が書く作品が「誰かに向けて書かれたもの」ではないように、ブロガーの書く文章には明確なメッセージのあて先が存在しない。故に、ブロガーは好きなことを《書く》ことが、会話においてよりも自由に許されているのではないだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/Geheimagent/20070207/p1
このエントリーでGeheimagent氏が論じているのは、「何故「女性はブログにセックスネタを書き、男性は書かないのか」という」問題である。その理由をGeheimagent氏は、女性が主体としての私のセックス、主体としての私の快楽を語る*1機会を抑圧されていることに求める。曰く、
その真偽についてはわからない。会話に異性が立ち会っているかどうかによっても違ってくるだろう。例えば所謂女子大的世界*2ではどうなのか。
果たして女性は自身をなめだるま化することができるのだろうか。女性が会話のなかで自分を「なめだるま化」して話すとき、そこには「うわぁ、品がないなぁ」とかいう批難が向けられることになるんじゃないだろうか。言い方を変えると「聞き手」はスムーズに「なめだるま化する話し手(の女性)」を受容しているんだろうか。想像だからなんとも言えないけれど「なめだるま化した自分」の話を聞いてくれる人って、女性にとって見つけるのが難しい問題なのではないだろうか。だから必然的に、「なめだるま化した話し手」がブログ上に書き手として現れている、と私は考える――男性でも「なめだるま化する《私》を受容してくれる聞き手」が見つけられない場合、ブログに書いちゃう気がする。「男のそれを読むか?」というのはまた別問題だけど(この『男のセックス日記を読むか?』っていう非対称性の問題もすごく重要だと思う。私としてむしろそっちのほうに興味がある)。
それよりも興味深いのは、諸々のblogを見る限り、男性がセックスを語る場合はグルメ・ネタに近いことが多いように思えるのに対して、女性の場合は恋愛の中にセックスがあり、さらに日常生活の中に恋愛があるという感じで、セックスがあくまでも日常生活に埋め込まれているものとして描かれていることが多いように思うことだ。この差異が何に由来するのかはわからないけれど。