「とりかえしのつかなさ」(メモ)

ちょっと前に松浦寿輝の小説集『あやめ 鰈 ひかがみ』について、そこにおける「時間の崩壊はどうやら、登場人物たちが物事の不可逆性或いは過去の取消不可能性という時間の根本的な掟を無視し、それを支える記憶に対して不誠実であるという過ちに由来するらしいのだ」と書いた*1。それに関連して、鷲田清一『ことばの顔』*2からちょっと抜書き;


こじれておもうようにいかないとき、スタートラインに戻ろうにも戻れないのが人生である。やりなおしがきかないのが人生、なにかをすればかならず他人とのあいだで尾を引く。あるいは思わぬ跡を残す。それに対して、言わずもがなのことを口にし、それがまた別のかたちで尾を引く……。わたしたちの人生とは、そういうゆきがかりの事実の積み重なりである。あるいは、偶然がたえず、否定しようのない必然に転換していく過程である。
この偶然が、かけがえのない関係を生む。家族であれ友人であれ、もとをただせば偶然の出会いがきっかけで生まれたものだ。あらかじめプログラムされた過程には偶然の出会いはなく、だからかけがえのない間柄も生まれない。
リセット・ボタンはその偶然を、所有者の恣意に変える。かけがえのない関係のなかを流れているどうしようもない時間の澱、時間のもだえを解除し、それを操作可能な時間に変えようとする。この時間感覚は、いまではビデオや留守番電話でおなじみのものだ。とりかえしのつかないはずの時間が、反復可能な時間になった。場合によっては、早送りも可能な時間に。
気分や思考をリセットするワザをもとめて多くのひとが『脳内革命』を読む。国家の記憶をリセットする必要を大声で説くひとたちも、この頃めだつ。百円ライターではないが、友だちもリセット感覚で使い捨てにされねばいいのだけれど。
弔いの感情、悔いの感情とは、とりもどしのきかない時間の感情である。逆に、とりかえしのつかなさそのものを純粋に反復するという逆説を生きるのが賭博であろう。人生は、そういう、とりかえしのつかなさと性懲りのなさの交替からなりたっているらしい。(「リセット・ボタン」、pp.91-92)
あやめ 鰈 ひかがみ (講談社文庫)

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ことばの顔 (中公文庫)

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