鷲田清一『老いの空白』

老いの空白 (岩波現代文庫)

老いの空白 (岩波現代文庫)

鷲田清一『老いの空白』*1を読了したのは先週のこと。


はじめに

1 〈老い〉はほんとうに「問題」なのか?
2 できなくなるということ
3 〈老い〉の時間――見えない〈成熟〉のかたち
4 〈弱さ〉に従う自由
5 ホモ・パティエンス――ぺてるの家の試み
6 肯定と否定のはざまで
7 「いるだけでいい」「いつ死んでもいい」と言い切れるとき
エピローグ 一枚のピクチュアへ


あとがき

ちょっと幾つか抜書きをしておく。
「はじめに」に曰く、

幼くしてあることと老いてあること、つまりは人生というものの入口と出口、それをくぐり抜けるのが、とてもむずかしい時代になっている。とりわけ〈老い〉の現実はいま、どう考えても、きびしさ、惨めさ、なさけなさのほうが、誇りや満ち足りをしのぐ。日本社会は、「超高齢化社会」という現実に、それも他に例をみない速度で直面しつつあり、これまでの人類史に参照すべきモデルのない時代を迎えている。が、〈老い〉のかたち、〈老い〉の文化が、〈老い〉そのものの内にも外にも見えない……。〈老い〉は空白のままである。その空白のなかに、高齢人口がどんどん流れ込み、〈老い〉はその存在が「問題」としてしか問題にされない。それほど〈老い〉の空白はきわまっている。(p.iii)

〈老い〉のかたちはこれから長い時間をかけてつくってゆかなければならないだろう。それは、人類がこれまで知ることのなかった未曽有の経験である。モデルは過去にはない。そのためには、壮年(労働年齢)をモデルとした社会構成から軸を移した別の社会が構想されねばならない。そういうフェイズに人類は入ってきている。〈老い〉はその意味で、ものすごくラディカルな、つまり社会にとって根底的な問いとして、いま立ち現れている。(pp.iv-v)
第1章から;

〈老い〉は、「少子高齢化社会」という言葉とともに、わたしたちの時代が抱え込んだ深刻な「問題」として論じられることが多い。わたし自身も、歳とともに、たしかに老い衰えは否みようのないものになってきてはいる。が、これが「問題」だとは、わたしはおもわない。わたしが、そして身のまわりのひとが、何らかのかたちでこれを引き受けてゆかざるをえない、ただそれだけのことである。
だれもがそれぞれにそれぞれの〈老い〉を迎える。時があっというまに過ぎる、そんなひたむきの生活を送っているひともいれば、一日一日をしのぐことそれじたいが鈍く、重くのしかかっているような生活もある。それは若年であれ、中年であれ、老年であれ、変わりはない。また、幼くして老け込んでいるひともいれば、いつまでも子供のように幼いひともいる。生きるということは日々老いるということでもあり、人生において〈老い〉はことさら言挙げされるような特別なこととはおもわれない。
そう言うと、「介護」という大きな問題があるという、さきほどもふと聞こえた声が迫ってきそうだ。たしかに、「介護問題」をはじめとして高齢化社会がもたらすさまざまな「問題」について、何事か新聞や雑誌が報道しない日はないくらいである。が、これは「課題」ではあっても「問題」ではない。
長寿化の達成とともに、「社会の一線」からリタイアしてからの時間がその「一線」にいる時間にほぼ匹敵するくらいに長くなったというのは、たしかに、人類がその歴史のなかではじめて経験する事態ではある。それが、人口構成のアンバランスと同時に起こり、そのような状況にどのような社会の仕組みで対応するのかという意味では、たしかにそれは人類史の「課題」ではある。が、それは取り組むべきテーマではあっても、「問題」ではない。
「問題」は、起こらなければそれに越したことはない厄介なもの、面倒なもので、それには解決策を見いだすことがなんとしても必要だ。だが、「課題」はそういうものではない。「課題」は、それと取り組むことそれじたいに大きな意味がある。解決とか正解とかがあるのではなく、それとどう向きあうか、それをどう引き受けるか、そのかたちが、(「問題」のばあいの「解決」にあたる)「課題」への「取り組み」そのものなのである。(pp.2-4)
第7章の最後;

(前略)これまでの言い方を踏襲すれば、〈強さ〉から〈弱さ〉へと社会構成の軸を移し換える、その実験を意味するのだから。わたしがこの書き物の冒頭、〈老い〉は社会にとってことのほかラディカル(=根底的)な問いとして立ち現れてきていると書いたのも、そういう思いがあってのことだった。生産性とか効率性、有用性とか合理性を軸として構成された社会をいわば別の軸をとって書き換えるという課題が、ここに突きつけられているからだ。ちょっと照れるような大ぶりの表現をあえてすれば、生産性とか効率性、有用性とか合理性を軸とする社会のなかでは「無用」の烙印を押され、せいぜい「補完」や「許容」の対象として位置づけられてきた人間の「営み」、つまりは「想像力、遊び、交わり、愛、夢想、ケア、英知、創造性、無為」(栗原彬)がむしろいま以上に豊穣で重層的な相貌をもって現れてくるような社会、それが〈老い〉をめぐる現実のなかで賭けられている。(pp.214-215)
さて、坂本龍一*2の言葉;

人間は生まれてから20歳くらいまでは、どんどん成長していきます。その後二十年くらい停滞する時期がありますが、そこからはかつて成長したのと同じくらいの勢いで衰えていく。

赤ん坊が急に言葉を話したり、立ち上がって歩いたりしますが、老化も同じようなもので、昨日までできたことが急にできなくなる。

それは死ぬまで続くんでしょうし、そうやって死に向かう階段を降りていくことこそ、老いるということなんでしょう。
(Cited in 嘉島唯「命と引き換えに仕事はできますか? 坂本龍一の答えが胸を打つ」https://www.buzzfeed.com/jp/yuikashima/ryuichi-sakamoto