エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』

アクセルの城 (ちくま学芸文庫)

アクセルの城 (ちくま学芸文庫)

エドマンド・ウィルソン『アクセルの城』*1を読了したのは先月の半ば。


一 象徴主義
二 W・B・イエイツ
三 ポール・ヴァレリー
四 T・S・エリオット
五 マルセル・プルースト
六 ジェイムズ・ジョイス
七 ガートルード・スタイン
八 アクセルとランボー


付録
I ジェイムス・ジョイスの新作小説からの抜萃の三つの異本
II ダダイズム回想録(トリスタン・ツァラ


訳者解説(土岐恒二)
解説:エドマンド・ウィルソンのために(篠田一士


索引

第1章では第2章以降で論じられる文学者たちの「淵源」としての19世紀における象徴主義の生成が論じられる。曰く、

(前略)第一次大戦以後いくたの論議をまきおこしてきた書物の多く典拠とも根本原理ともなっているものについては、奇妙にもほとんど理解されていないのが一般の実状である。たとえばW・B・イエイツ、ジェイムズ・ジョイス、T・S・エリオット、ガートルード・スタイン、マルセル・プルースト、ポール・ヴァレリーといった作家たちが、自己意識的な、きわめて重要な文学運動の頂点を示していることは、一般には認識されていない。これらの作家たちがなにか共通のものをもち、ある一つの共通の流派に属していることに気づいたとしても、その特徴が何であるかについてはどうもはっきりわかっていないらしい。(p.7)
また、

(前略)こんにち、われわれがその円熟した展開ぶりを嘱目している運動は、ロマン主義の爛熟とか純化というよりも、むしろその片割れであり、同じ潮流の第二次満潮なのだ。いや、満潮の比喩でさえ誤解をまねこう。こんにちわれわれが目にしているのは、ロマン主義とはまったく別の運動である。それは別個の状況から興ったものであり、したがって別個の用語で取り扱わなければならない。(p.8)
その後、イエイツ、ヴァレリー、エリオット、プルーストジョイス、スタインと順々に論じられていく。そして、ガートルード・スタインを論じた第7章の途中で唐突にダダイズムが論じられ始められる(p.331ff.)。そして、第8章の「アクセルとランボー」。ここで初めて、本書『アクセルの城(Axel's Castle)』の意味が明らかにされる。ここで登場するのはヴィリエ・ド・リラダン(Villiers de L'Isle-Adan)*2。その最後の長編散文詩『アクセル』が論じられる(p.337ff.)。「なかばワーグナー風、なかば伝奇的=ゴシック的な雰囲気につつまれて、シュヴァルツヴァルトの奥の人里離れた古城に住み、そこで錬金術師たちの秘法の研究に没頭」する(pp.337-338)「アウエルスブルクのアクセル伯爵」は物語の最後に(愛する女性、サラの肉体をも含む)あらゆるマテリアルな快楽を拒否して、サラとともに「毒盃を仰ぎ、歓喜のうちに息絶える」(p.343)*3。ウィルソンは、この「超夢想者」であるアクセル伯爵は「当時のみならず今日も、象徴派のあらゆるヒーローたちの典型である」という(ibid.)。さらに、浪漫主義と象徴主義の違いについて、以下のように述べる;

(前略)ロマン派の特徴が、愛、旅行、政治といった、経験それ自体のために経験を求めること、人生のさまざまな可能性をためすことにあったのに対して、象徴派は、同じく公式を嫌い、同じく因襲を捨てながら、自分たちの実地訓練を文学の領域だけに限って進める。そして、彼らはまた、本質的には探検家でありながら、ひたすら想像力と思考の可能性だけを探検する。また、ロマン派が、その個人主義の立場から、すわりごごちの悪い社会というものに反抗あるいは挑戦するのが通例であったのに対して、象徴派は社会から距離をおき、社会に対する無関心を養う。象徴派はその独特の個人的感受性を、ロマン派が練磨した点以上に練磨するであろうが、その個人的意志を主張したりはしないだろう。象徴派は、終局的には、ちょうど象徴派の代弁者アクセルが人生の舞台を一変させたように、文学の領域を、客観的なものから主観的なものへ、社会とともにする経験から孤独においてかみしめられるべき経験へと、完全に一変させるであろう。
象徴派の主人公たちは、日常生活のなかにみずから位置をしめる努力をしなければならないくらいなら、むしろそこから退去しようとするであろう。彼らは情人を振り捨ててまで夢のほうを取る。わたしが本書で論じてきた現代作家の主人公たちも、総じてアクセルと同じく妥協ということを知らないし、ときには当の作家たち自身が、その生活を初期の象徴派の神話に基づいて設計したのではないかと思われることさえある。(後略)(pp.344-345)
また、

むろん世紀末詩人たちが当時の一般人の生活からこのように身を引いた最大の原因の一つは、産業革命中産階級の勃興によって産みだされた功利主義の社会において、詩人は占めるべき位置をもたないらしいという事実であった。ゴーティエの世代にとって、ブルジョアはすでに敵となっていた。しかしブルジョアと戦うことに生きいきとした満足感を味あうことはできた。しかしながら、世紀の終わりごろになると、ブルジョアの世界は非常に強くなって、詩人の観点からは、それと対抗するのは絶望的と思われるようになってしまった。りっぱなドイツ市民の前に出ると浅ましい「劣等感」に悩まされるトーマス・マンの芸術家気質の主人公たちは、世紀末の典型的な人物たちである。しかし、H・G・ウェルズやバーナード・ショーのようなロマンティックな気質の強いある種の作家たちは、ブルジョア世界に逆らって、シェリーやルソーのようなロマン派のうちでも最も個人主義的な傾向の強い人たちが抱懐していたあの普遍的な幸福という夢の実現を、新しい社会科学をつうじて推進しようと努力した。しかし、社会的関心もなく、諷刺的な性向もなく、したがって社会を利用する方途も持たないとき、人は社会と闘ったり、社会に対する不平不満を公表して注目を集めたりはしなかった。彼はただ、社会を無視し、想像力を社会から完全に自由にしておくことに全力を傾注した。(pp.347-348)
ウィルソンは、


主観(個人)/客観(社会)


という対立を立てているわけで、「アクセルの城」とは社会から隔絶された主観性のメタファーであり、象徴主義、またその延長であり「頂点」であるヴァレリージョイスなどのモダニストは、自身及び文学を「アクセルの城」に閉じ込めてしまった究極のヒッキーだという結論になる。少なくともここまで読む限りにおいては。その後、「社会」どころか「文学」からも「退出」してしまったアルチュール・ランボーが論じられ(p.349)、再び第一次大戦後の文学のトレンドに戻り、「もともと象徴主義が代表していた十九世紀自然主義への反動は、どうやらその全行程を走り終えたらしく、少なくともこの三百年の間に起こった客観と主観の両極間を揺れ動く振子運動は、ふたたび客観のほうへ戻るであろう」と予言される(p.376)。それで話は(例えば)〈社会主義リアリズム〉とかに向かうのかなと思うと、同じパラグラフの中で、


われわれが懐いている主観・客観の概念は、まぎれもなく誤った二元論に基づくものであった。物質主義も理想主義も、等しく科学研究の意義についての誤った概念に由来するものであり――古典主義とロマン主義自然主義象徴主義は、それゆえ実は偽りの二者択一なのである。それゆえわれわれは、自然主義象徴主義が結びついて、かつて人間の知ったいかなるものよりも豊かで精妙、複雑、完全な人間の生とその宇宙との実相(vision)を提供してくれるのを見ることができるかもしれない――いや、二者はすでにそのように結合している、象徴主義はすでに自然主義とふたたび合同している――ひとつの偉大な文学作品、『ユリシーズ』において。(pp.376-377)
と書く。そして、象徴主義の哲学的インプリケーションが言及されて(pp.379-380)、『アクセルの城』は幕となる。
(少なくとも21世紀という特権的な地点から見れば)、凡庸で、読者を脱力させるに足る結論であるということにはなるだろう。特権的な視線でウィルソンを論えば、彼は主観/客観に囚われて、主観的でも客観的でもない〈経験〉や〈現実〉に目を向けることができなかったといえる。それはフロイトに言及することはあっても(Eg. pp.293-294)、フッサールには言及していないこと、一応ベルクソンに言及し(p.211)、ウィリアム・ジェイムズの名前は出しながらも(p.309)、深く追及するということはしていないというところに表れているか。また、主観/客観という区別が強調される一方で、藝術史や文学史を語る上でやはり定番的である筈の形式/内容という区別が等閑視されているということも指摘しなければならない。そのことによって、象徴主義、またその「頂点」としてのモダニズムの重要な特性、つまりリアリズムや日常言語においてはリソースでしかない言語(象徴)をトピックに押し上げたということが無視されしまったのではないか。

*1:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101106/1289073003 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101113/1289622047 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101126/1290737366

*2:See eg. http://www.britannica.com/EBchecked/topic/629246/Auguste-comte-de-Villiers-de-LIsle-Adam

*3:或る種のオタクどもは、これって〈三次元〉を拒否して〈二次元〉に「没頭」する俺たちの先祖じゃんと小喜びするかも知れない。まあ、だったら、〈生〉なんてメイドにでも任せてとっとと死ねよ、アクセル伯爵みたいに、ということにもなるのだが。