土佐昌樹『アジア海賊版文化』

アジア海賊版文化 (光文社新書)

アジア海賊版文化 (光文社新書)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101208/1291734308で書名だけ挙げておいたのだが、先月末に土佐昌樹『アジア海賊版文化 「辺境」から見るアメリカ化の現実』(光文社新書、2008)を読了している。


まえがき


第一章 アジアとアメリ
第二章 ミャンマーの海賊たち
第三章 中国の海賊、そして文化とコピーの関係について
第四章 ティーショップの霧深く――公共圏から見たアジア文化
第五章 ポピュラー文化が切り開く通路――「韓流」が見せたアジア的交流の可能性
終章 空高く、あるいはビル群の隙間からアジアの明日を見つめる


参考文献
あとがき

今は余裕もないので、必要であれば後日詳しい抜書きをする。ここでは簡単なコメントに止める。
錯綜した内容を持つ本書を一言で表現すれば、海賊版を含むメディアを通して大衆文化が錯綜するグローバル化の状況の中で再度〈亜細亜〉を想像する試みということになるだろう。また、方法的には「民族誌」という方法の革新をも目指しているらしい――「文化を完結したシステムとみなすのでなく、なによりトランスローカルな流れに注目することで、新たな民族誌のスタイルを模索しようとしている」(p.5)。
第一章は現在亜細亜を語る上で避けて通ることのできない前提としての米国を巡って。また、ここでは梅棹忠夫*1の『文明の生態史観』が批判される。例えば、梅棹の議論からは「アメリカがすっぽりと抜け落ちている」(p.28)。また、「アメリカ化」を巡っては、第三章からではあるが、

ハリウッドに代表されるグローバルな文化産業は、その帝国主義的な世界戦略によって画一的な文化を世界中に押しつけている――こうした皮相な理解は、現実の文化動態をまったく説明していない。現実は、もっとも貧しい国に至るまで、世界中のあらゆる地域であらゆる戦術を弄して、ハリウッド文化に自分の意識を同調させようとする微細な動きが神秘的な生物の無数の触手のようにうごめいている。
つまり、海賊行為を含め、身を乗り出して天空の星をつかもうとする実践の総体こそが、グローバル化に他ならないではなかろうか。アメリカ化とは決して押しつけの産物ではなく、集団的な「否認」によって意識のスクリーンをすり抜けた「主体的」受容の結果に他ならないのである。(p.87)
という箇所をメモしておく。
文明の生態史観 (中公文庫)

文明の生態史観 (中公文庫)

第二章では、ミャンマービルマ)のメディア状況と海賊版流通の状況が語られる。ヴィデオ・ショップは「文化サロン」として機能しており(p.58)、そこではジャーナリストも軍人も官僚も「社会的地位を忘れてただの映画ファンに戻ることができる」(p.59)。
第三章では、中国雲南省海賊版の状況が語られ、文化と「コピー」の関係が論じられる。「熟練した職人的ノウハウでなく工学的な情報に依存する度合いが高まるほど、コピーすることが容易になっていく」(p.80)。
第四章では、「公共圏」が論じられる。亜細亜における「公共圏」の例として採り上げられるのは、中国における「女性学」運動(pp.123-125)、韓国における学生運動(pp.125-131)である。また、理論面では、「公共圏」を理解する鍵として、ハーバーマスの議論のほかにヴィクター・ターナーの「コミュニタス」論が提示される(p.133ff.)。
第五章では、軍事独裁政権から民主化後に至る韓国の文化史を踏まえて、「韓流」が論じられる。特に、「韓国ドラマそのものがもつハイブリッドな出自」(p.174)が強調される。そして、「韓流をナショナルな文化を前提にした交流や越境現象と捉えるのではなく、若者世代のサブカルチャーや「趣味」に対するこだわりがグローバルな消費文化として広がりつつあるという、より大きな物語の一部として読み解くべきである」(p.161)。
終章は多様な問題が提起されているというか、些か混沌とした印象を与える。この混沌とした印象というのは著者の狙いだったのかも知れない。先ずは「ディアスポラ」という概念の提示(p.185ff.)。そして、「ディアスポラ」の極としての米国における「韓国系養子」の例(pp.188-190)。それから、岡倉天心的な「アジア主義」の再評価(p.202ff.)。そして、最後には「文化」の商品化の限界、それを踏まえての国家間の「文化競争」が論じられる(p.213ff.);

つまり、文化の商品化といっても、本当に市場原理だけで成り立っている芸術など、高級か低級かを問わず、あくまで一部に限られるということだ。それは、国家の贈与やアーティストの自己献身という非合理な実践を前提にしなければ、そもそも成立しない世界である。多くのアーティストとその予備軍を抱え込み、国家の威信をかけて芸術を育成するとは、社会の中にそのような非効率な空洞を抱え込むことを抱え込むことを覚悟するに等しい。文化創造とは、そうした「ムダ」を享受する社会的余裕と寛容さであり、アジアがその段階まで本当に「成熟」したかどうかは、巨額の費用を投入して建造したオペラハウスでどのようなプログラムが演じられるかにかかっているだろう。(p.217)
最初に、本書のことを「海賊版を含むメディアを通して大衆文化が錯綜するグローバル化の状況の中で再度〈亜細亜〉を想像する試み」と書いた。では、〈亜細亜〉は最終的にどのように想像されるのか;

私はそこには、論理必然的な根拠などないと思う。むしろ堅固な根拠を求めたとたん、イデオロギーとしての「アジア主義」にのみこまれてしまうしかなくなる。その結びつきを支えているものは、あくまで歴史偶然的な条件であり、また情緒的で感覚的なテイストである。それは、人生の大半がそうであるように、絶対的な根拠など与えられていないが、だからといってその重要性が減ずることにはならない。あえていえば、アジアとは、不在と不在、欠如と欠如が交わる地点で卒然と浮かび上がる「普遍性」であり、無根拠な共通項と呼んでもいい。
私たちが生きている時代は、幸運なことにそうした感覚が政治的イデオロギーによって台無しにされる心配がどの時代と比べても小さいといえる。もちろん、無根拠を根拠と偽るイデオロギーや、他者を差別する我執の罠が消えたわけではない。それはいわば「人間の条件」であるから、完全に払拭することはできないだろう。(pp.207-208)