「自主講座」の帰結など

森直人「大学教育の記憶」http://d.hatena.ne.jp/morinaoto/20100701/p1


既に7月のエントリーではあるが、1960年代の大学闘争の背景となった大学教育の〈マスプロ〉化の様子について。これについては、かなり以前に島泰三安田講堂 1968-1969』から孫引きした*1東洋大学全共闘の竹林正純氏の回想を再録しておく;


俺たちが立ち上がったのは、大学当局が学生を人間扱いしていないってことだったよなあ。四月に大学に行っても、学生が多すぎて教室に入れないんだよ。学生が大学をあきらめてバイトなんかを始めて、学校に来る学生が少なくなってはじめて、教室に学生が入れるくらいの数に減るわけだ。大学当局は、教育とか何も考えていなかった。「授業料さえきちんと払えば、卒業させてやる」って、そういう態度だった。(Cited in pp.80-81)
安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

安田講堂 1968‐1969 (中公新書)

森氏の記述で面白かったのは、マイクの性能や当時「エアコン」がなかったことといった技術的な要素に目配せしていることだ。さて、森氏は「自主講座」に言及している;

ここで私が注目するのは,当時,かれらのなかで自然発生的に生まれたバリケードのなかの「自主講座」「(カリキュラムの)自主管理」の試みである。大学に入ってから初めて体験した,「能動的な,喜びと苦しみを伴った勉強」。「ぽっかりとあいた自由の空間」――もちろん,周知の通り,それは“挫折”する。かれらに,大学教育レベルのカリキュラムを自力で組む力量など,なかったからだ。
(その後の教育の動向に対して)「「この経験」の影響は小さくなかっただろうと思っている」という。私の大学時代、つまり1970年代末期から1980年代前半には、東大を初めとする少なからぬ大学に「自主講座」という運動体が存在していたし、1960年代の反体制運動の系譜を引く「寺子屋教室」も活動していた。さらに思ったのは、「自主講座」という現象から最も学んだのはもしかして〈文化産業〉ではなかったのかということだ。大学闘争が凋んだ1970年代にブレイクしたのは所謂〈カルチャーセンター〉産業である。〈カルチャーセンター〉という一般名詞は朝日新聞社が運営する「朝日カルチャーセンター」に由来するが、ほかにも大手としては、保坂和志が勤務していた西武百貨店の「コミュニティ・カレッジ」*2があった。根拠もなく推測しているのは、「自主講座」の帰結のひとつが〈カルチャーセンター〉ではなかったかということ。特に「コミュニティ・カレッジ」は1980年代に入って、所謂〈ニューアカ〉などを背景とし、セゾン・グループの他の事業とも連動しながら、〈教養の商品化〉を牽引していく。その意義としては、(良くも悪くも)〈教養〉の中心が〈大学〉の外部に移った(ように見えた)ということか。
「マスプロ」について。私が大学に入った頃はそれは既にデフォルトであって、知的好奇心のある学生は寧ろそれを口実に、〈授業〉の外に〈教養〉を求めていたのではないかと思う。勿論、そこには少なからぬ〈トンデモ〉が入り込む隙があったわけだし、身に着けた(と思った)〈教養〉にしても、余計なもの、所謂〈サブカル的教養〉にすぎないと言われればそれまでなのだが。