投資収益率の低下について

http://blog.goo.ne.jp/rebellion_2006/e/22a2904e0e3bbbcd6bc2af7e26f0f557


教育は「投資」だといっても、「投資」の主体が国家なのか個人なのかで、その意味は違ってくるだろう。国家が「投資」の主体である場合、それはどちらかといえば〈インフラ整備〉に近い。また、小渕恵三内閣の時に、義務教育は国民の権利に関わるというよりも国家の統治行為に属する事項であるとする報告が出たことがあったが、上からの目線、つまり官僚やら政治家やらの目線で見た場合、それは一応正しいと言わざるを得ないだろう。最低限の読み書きや計算もできないような国民を相手にしてデモクラシーも市場経済もへったくりもないだろうというのは、やはり説得力がある。逆に言えば、教育が国家の統治行為であるからこそ、そこに変なイデオロギーが入り込まないよう不断の監視が必要なのだということにもなる。
さて、


 以前にも書いたことですが、少子化が進めば当然のことながら、子どもに投下される教育のリソースは先行世代よりも集中するものです。10人の子ども全員を塾に通わせて大学に進ませるようなマネは中産階級には不可能なことですが、子どもが一人か二人ぐらいなら、中の下くらいの家庭でも塾や大学に入れてやることは難しくないでしょう。公教育にしたところで団塊世代なら1クラスに50人ほど詰め込まれたかも知れませんが、今なら1クラス35人ほどで相対的には目配りの聞いた教育が受けられるわけです。そうなると必然的に高等教育を受ける人間の割合も増加していくのですが、これが日本の社会にマッチしているかというと、大いに問題があったりします。

 大卒者の割合は上昇を続けていく一方で、そうした高等教育修了者向けの就職先が合わせて増加しているかと言えば、甚だしく悪化する大学生の就職事情を見るまでもない、受けた教育に見合った職は完全に不足しているわけです。本来なら教育は将来への投資でもあり、しっかりと教育を与えれば将来的には倍になって返ってこなければなりません。しかるに現状では、教育への投資が無駄になってしまうケースが多いのではないでしょうか。いくら子どもの教育にお金をかけても、マトモな仕事に就けるとは限らない=教育への見返りが得られない、と。そうなると教育への予算をムダと見なす風潮が強まるのも無理からぬところです。

この部分は教育=個人による「将来への投資」ということが前提になっている。教育という「投資」の収益率の低下というか学歴のインフレという事態は既に1970年代にロナルド・ドーアが指摘している(『学歴社会 新しい文明病』)。但し、ドーアが指摘したのは第三世界の新興独立国についてだったけれど。そこでは、産業が教育に追いついていなかったわけだ。それに対して、現在の日本で起こっているのは教育(大学)が産業を追い越してしまったという事態だ言えるのかも知れない。ただ、この表現に関して些か自信がないのだが。ちょっと、教育「投資」熱の背景についてお温習いしておく。子どもの教育に「投資」すること、それは所謂〈新中間層〉の階層的な特性に依っている。自営業を中心とする所謂〈旧中間層〉と違って、新中間層は基本的にプロレタリアートというか給与生活者であって、自らの事業を子どもに世襲させるということができない*1。ということで、教育への「投資」は遺産の先払い(生前贈与)という性格を持つ。自営業者(或いは中小資本家)にしても、資本主義の進展(例えば独占資本主義化)によって、自らの地位が危うくなっているのに気づくと*2、子どもに商売を嗣がせるよりも大学にやってサラリーマンにした方がいいということになって、教育への「投資」に参入していくことになる。こうして、「将来への投資」としての教育が全国民化するわけだ。その結果、供給(大学数)も増えたこともあり、社会は高学歴化した。知識(教養)と(資産としての)学歴は違う。いくら知識を持っていても、他の人がDQNであればわかってもらえず、そこから何か新しいものが生まれてくるということはないし、そもそも知識を持っていることを評価できるのは自分もそれなりに知識を持っている人に限られるのだから、周囲一帯DQNばかりという状況では俺は知識を持っているという確信も確立できない。それに対して、学歴というのは究極的には国家権力によるお墨付きなので、知識の場合のような間主観的なコンティンジェンシーに依存することはない。その意味で一応〈客観的〉だとは言える。また、知識の場合とは違って、学歴は格差がくっきりとしている状況においてこそ、資産として意味を持つ。大学進学率10%の社会と50%の社会では、学士号の資産価値は全然違う。ということで、社会全体が高学歴化すればする程、学歴の資産価値は下落する。ではどうなるのか。「投資」を諦めるのか。そうではないだろう。さらに稀少で資産価値があると見做された物件への「投資」が集中することになる。賭け金は上昇するのだ。並みの大学よりは所謂一流・有名大学。さらに今の流行りはというと、MBAやロー・スクールといったところか。こうしたことは昨日今日の話ではなく、遅くとも1960年代以降徐々に進行してきた事態だろう。今日的な問題は、貧困故に「投資」から(それもかなり初期の段階で)脱落してしまう人が可視化されてきたということだろう*3。これも教育なんて無駄だという風潮が社会に拡がり、昔みたいな低学歴社会に戻れば、(少なくとも主観的)問題は小さいといえるだろう。そこでは、低学歴こそマジョリティなのだから。しかし、少なくとも今の段階では、そうはならないだろう*4。寧ろ教育=「投資」ということに対する見方をちょっと変えるべきだ。大方の人にとって、教育への「投資」というのは莫大なリターンを狙ってというよりは、〈人並み〉を維持するための必要経費という意味合いが強くなっているのではないか。つまり、大して儲かるわけではないけれど、そうかといって止めてしまえば、〈人並み〉から脱落して、スティグマが待っているというわけだ(Cf. eg. 藤田英典『教育改革』)。「甚だしく悪化する大学生の就職事情」といっているけれど、中卒は言うまでもなく高卒の「就職事情」はさらに「悪化」しているのでは? 下手な大学に入るよりも高卒で就職する方が難しいんじゃないか。
学歴社会 新しい文明病 (同時代ライブラリー)

学歴社会 新しい文明病 (同時代ライブラリー)

教育改革―共生時代の学校づくり (岩波新書)

教育改革―共生時代の学校づくり (岩波新書)

教育=「投資」という図式を自明なものとして使用してきた。しかし、このいい方はとてもけったくそ悪い。実は教育=「投資」という図式が蔓延すればするほど、教育への公的資金を削減しろという新自由主義的見解も同時に蔓延していく。「投資」だったら受益者負担・自己責任でやれというのは理の当然。それから、教育は「投資」だと気張っている段階で既に負けているだろうという感じもする。別段気張ることもなく、3月末になれば桜の花が咲き、6月になれば紫陽花が咲くのと同じように、人間も10代後半になれば大学へ行くものだと考える階層もあるわけで、こうした〈自然体〉階層と気張り階層との格差は広がることはあっても縮まることはないような気もする。教育=「投資」という図式に同情すれば、そうでも言わなければ「教育」を社会的に正当化できないという事情はやはりあるわけで、そのような状況を作り出しているanti-intellectualism*5を問題にしなければいけないだろう。勿論、anti-intellectualismに左右なし。

*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090113/1231812154 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090702/1246567126

*2:See eg. http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090804/1249353677

*3:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060106/1136569756 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091124/1259028538 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091110/1257844756 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091223/1261584995

*4:資産としての学歴は格差があればあるほど、その価値が上昇するのだから、一部の学歴エリートは本音としてそういう事態を願っているのかも知れない。

*5:反知性主義」という訳語の問題性については取り敢えずhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080612/1213250048を参照されたい。