共通善とデカルト(メモ)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルト=哲学のすすめ (講談社現代新書)

デカルトに言及したので*1小泉義之*2デカルト=哲学のすすめ』の頁を捲っていた。その中で、「共通善」*3が論じられている箇所が興味深かったので、少し写しておく。「慈善活動」に対する批判に反論する文脈で、


(前略)公共経済学は最初は、公共財とは、誰にとっても必要とされる財であるが、市場に任せては供給されえない財であると定義する。ということは、誰にとっても必要とされる食物という共通善は、現実には市場に任せては供給されないことがある財だから、第一に公共財と呼ばれるべきであるはずだ。ところが公共経済学は、公共財を、市場に代わって「公的」機関である政府や地方自治体が供給する財として定義し直してしまう。ここには重大な転倒があるのに、研究者は全く無自覚なままに進んで、最後には公共財の典型として外交・防衛・警察を挙げて、また公共財の対極に位置する私的財の典型として食物を挙げて、全く怪しまない。ここには二重三重の転倒があるのに、公共経済学は、公権力が租税を用いて供給する財だけが公共財であるとして、公権力だけが公共性を後見して共通善を保証するかのように描き出しているのである。(pp.164-165)
また、

デカルトは共通善に与るときには個人的善が奪われることはないと書いている。ここでは音楽の享受という善を範例にとろう。音楽を個室で聴くときに、私が自分のことだけを考えているなら、それは個人的体験になるが、私が自己を音楽仲間の一人と見なすとき、それは共通の体験になる。音楽をコンサート会場で聴くときには、個人的体験も共通の体験もともに可能になる。大事なことは、いずれにせよ私の音楽の喜びは減じないということである。このような仕方で、精神の糧と身体の糧について考え抜くことが、デカルトの倫理の核心になる。(p.168)
「共通悪」の否定;

ところでデカルトは個人的害悪を他人が分かち合うことはないと書いている。つまり「共通悪」は存在しないのである。公共秩序の紊乱、戦争の危機、国家独立の侵害などは、「国家に関係づけられる場合」には積極的な何ものかとは言いうるが、「宇宙の善に関係づけられる場合」には何ものでもない(『省察』「第五答弁」)。このことからいくつかの帰結を引き出すことができるが、ここでは一つだけ述べておく。デカルトの見地からは、いかなる犯罪であっても、それは個人的被害の寄せ集めであって、全員が影響を受けるような共通悪ではない。とすれば、共通悪が存在するかのように装って、共通悪なるものを減少させると称している権力は、全く無用であることが分かってくる。実際、警察・司法・衛生からなるポリツァイ(ヘーゲル的行政)は、個人的被害が発生した後にしかやってはこない。公共善の典型とされる外交・防衛・警察は、共通悪というフィクションの上に築かれた無用の権力であって、共通善の保証のために立ち上げられた公共善になっていないのである。(pp.168-169)